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8月31日(金) 

デンファレの花芽が数えてみると7つほどあった。

ようやく涼しくなりつつある。暑く長い8月だった。

 

このHPを作成している「蘭編集本部」の入っているパソコンは、2003年に組み上げて以来ほとんど手を入れていない、ということを思い出した。マザーボード、CPU、メモリの交換で4年間も使い倒してきたのだった。OSは6年前に買ったWin2000のままだ。ビスタを使っている人間をみたことがない。世の中あれからあまり進歩したように感じない。

 

8月29日(水)Onc. Sweet Sugar?開花 

雨は降ったが32℃まで気温が上がったりした蒸し暑い日だった。30℃を超えなかった家では、マスデバリアなどはまだまだ大丈夫そうだ。

 

Onc. Sweet Sugar?が開花した(今月9、今年108、新規28)。よく咲いてくれるオンシジウムである。この時点で108株の開花はなかなかすごいと思いつつも、昨年はこれより6株多く咲いていたというのがすごいと思う。

 

デンファレにわらわら花芽がでてきている。咲いているものは盛大に咲いてくれている。

 

2007年5月6日 I氏よりいただいたMilt. Summer Time ‘Flash Moon’に花茎が2本あがってつぼみがでてきた。即戦力ですな。

 同じくいただいたMax. rufescens にも花がいくつか咲いてくれている。

 

 Barkeria skinneriおよびPleione maculateが間もなく開花だ。

 

 テレビを見るとモラルが低下してきているのだそうだ。そうかなあ。そりゃあまあ、ウソつきやずるいやつ、せこいやつは毎日マスコミがいやらしくたたくからたくさんいるような気がするが、身近にそうそういるものではない。人間は、望ましくないとわかっていても楽で能力を損ないがちななほうへ追いやられてゆく弱い部分や、そこへ落ち込んでゆくような時期がある。それでおしまいではなくて、そこから抜け出すチャンスも時間もほんとうは結構ある。以前は魅力的だった世間の誘惑の数々は最近しょぼい。ネットも、電気製品も、テレビも、映画も、アニメも、漫画も、旅行も、さして面白いものがないので、仕事がはかどる。相対的に仕事を面白くすると娯楽がつまらなくなるのかもしれない。娯楽には、今それをしなければならない本質的な必要性がない。

 

 

8月26日(日)広島植物園、Lc. Aloha Case ‘#32’× C. intermedia var. delicate開花 

強烈に暑い日がつづく。本日は広島市植物公園に午前中行ってよく汗をかいた。今年は分け株の販売はなかったが、いろいろ撮影した画像を得た。

 

長距離を運転して久しぶりに家に帰ってみるとLc. Aloha Case ‘#32’× C. intermedia var. delicateが初の1花茎3花で開花していた(今月8、今年107、新規28)。もう2本花茎があり、つぼみが4つ。全部咲けば花7つになる。

 

8月25日(土) 

休み5日目は、特にすることもなく、家族の行楽に乗っかって移動していた。昨年同様萩に行ってきた。

 

8月24日(金) 

休み4日目は、特にすることもない。広島市内をすこしうろつき、午後は廿日市図書館で過ごした。昼飯に昨日の魚を煮つけで食べる。魚は一回り縮んだように見える。味は大変おいしかった。

 

この図書館はこれまで見てきたどの図書館よりもラン関連書籍が充実している。「男の趣味、ラン」とかいう本だったか、おっさんがどひゃ-っ、という数のランに囲まれて写っている写真があって「30台、仕事のもっとも忙しかった頃にくたくたになって帰ってきても蘭を見ていると疲れがスーッとひいてゆくんです」てなことがかいてある。まあわからんではない。「昔から植物は好きでした」というひとが蘭をやっているようで、植物をやったことがない人がいきなりランというのはちとしんどいか。

 

 

8月23日(木) 

休み3日目は、かみさんの用事で山口県の大島に行った。時間が余るとかで釣り道具とえさをかってゆく。釣りの錘にロケットというのを使っていたが、3個330円と安くはない。ふと見ると1つ20円の手ごろな大きさの錘がいろいろあったので、これを買って行く。ロケットも用心に買ってゆく。釣り針は3袋はいったものが298円というのを買った。1袋に仕掛けが2つついている。しかけ1つにはりが2つついている。えさは石ゴカイで50g630円もする。なんやかんやで1300円の買い物だった。これで一体どれほどの釣果があるのか。

用事をチャッチャと済ませてバケツを持って海に行く。行く手を水に阻まれたので靴のままじゃぶじゃぶと水に入り、腰まで水に浸かりながら進んだ。とうとう道具を岸において泳ぐことにした。服やら靴やらをつけて泳ぐ。そういう訓練だと思って泳ぐ。体は十分に浮かんで犬掻きで結構進めることを確認した。服がぬれているためその後一日中涼しかった。

その場所で投げ釣りをしてみる。例の20円の錘をつけ、これに仕掛けをつけ、ゴカイをつけて投げる。あたりはない。あげてみると小魚がつれていて、毒針つきのため取り外すのが困難な奴だった。のっけから大変けちがついた。満ちはじめている湾内はこんなものかとみきりをつけ、岩場を乗り越えて湾外にでてきた。ここで投げると恐ろしく遠くまで仕掛けが飛んだ。70mくらいだろうか。私にしてはずいぶん遠くへ飛んだ。竿とリールは子供用のセットだ。ほどなくビクビクっとあたりがきて竿がしなった。おお、なんか大きいぞ。うわ、おもたい。竿がぐいーんと曲がる。どんな大きな魚なのであろうか。ひいては巻きひいいては巻きを繰り返してなんとか魚が見えた。20cmを超えるべらだった。まあ釣りをたしなむ人にはたいした釣果ではないのだろうが、一食分の煮付けにできる立派な魚に見えた。その後もそんな調子で結構な大きさの魚がつれて、珍しく家族全員の魚を得ることができた。8匹中6匹が満足の行く大きさである。1匹300円とすると、損益分岐点を越えて利益の出る領域までやってきた。大変珍しいことである。まあそれ以上にあの魚のあたりの感じとか、ぐーっと竿がしなるのを引き寄せる感じとか、なんともわくわくする感じを何度も味あわせてくれた。

大島からの帰り道「イッパチ」という道の脇の食堂でラーメン大盛(660円)を食べた。この30年来定評のあるラーメンを出す店である。こういうところで大変うまいラーメンが食べられるというのは誠に不思議である。これはこれで至福のひと時であった。

 

蘭のらの字もやってないねえ、今日は。

掲示板でもネットオークションの話題がよく出てくる。私もちょくちょく覗いてはいる。オークションには苗という項目があって、その中にランというカテゴリがあるのだった。そこではフウラン、カンラン、セッコク、春ラン、カトレア、バンダ、コチョウラン、その他のランが種々扱われているのであった。最近ラン友の間で話題になっているのは『父の遺品シリーズ』であった。数ヶ月にわたり、かなりの数がオークションに放出されたらしい。当初トレイまとめての出品だったが、最近は単品ででてくる。ラベルなどの画像もあって、有名株が安く出ていたりした。私が勝手に思うに、もし私が死んだら残った蘭を家族が育てる熱意のある人に売るというのはいいアイデアだなあと思う。

ネットオークションというのは送料が1000円ばかりかかる。その1000円のために検討外の扱いである。

近所のラン友会の競だの、売店だの、明幸園だの、ラン友との交換だのをやっていると、安く多量のランがやってくるため、購入平均単価が500円を切り、2000円近いオークションのランには購買意欲が低い。初心者は、しかしこういうオークションを見ると心が騒ぐだろう。私も初心者だったら間違いなく飛びついている。たとえ15株手に入れても次の月には欲しいものが出てくるのだ。落ち着くのは持ち株が200株あたりからじゃないだろうか。

 

8月22日(水) 

やっと休みという雰囲気で家族の物見遊山に付き合う。青い空、白い雲、透明な水の川、深い谷、涼しい山をゆく。鍾乳洞に安置されている観音様を見に行った。安い野菜を買い、柏餅を食べたり、本を読んだりとゆったりして過ごす。

探していたマタタビを山の峠道で見つけた。葉っぱを採取したので、これで猫をおどらせてみたい。

途中、近所に蘭園があることを知った。まあ、タップリ蘭はみたからいいかという気分である。

 

 甲子園の中継を見ていたら、広陵が4-0で勝っていた。8回裏1アウトを取ったところでこれは大丈夫だろうと思ってみているとあれよあれよと満塁になり、押し出しになり、そこから出かけた出先の電気屋で見たときには4-5で決着がついていた。なんということであろうか。広島県の人間としては結構つらい。ああ私が見なければ勝っていたのではないか、とさえ思えた。

 

 激闘の末打ち返した仕事に決着がついた。大変長い年月をかけて営々と積み上げてきたものが結実した。喜びの気持ちはわいてこない。感謝の気持ちはある。まあなにはともあれ、つぎにかかろう。

 

8月21日(火)京都府立植物園、大山崎山荘 

強烈に暑い日がつづく。昨夜やっと仕事にけりがついたのでまともな休日となるはずだったが、朝6時からせかせかと動き出すのであった。18切符を買って通勤電車に乗った。

テレビでみた東寺の帝釈天が見たくなって、京都駅から歩く。9時前だったが、さすが京都は暑い。東寺は8世紀ころ建てられたお寺で、その後空海のお寺になるんだったか。仏教というのは詳しくないのだが、密教というとインドの神様がたくさん出てくる。講堂という建物に立体曼荼羅というのがあって、国宝の仏像がたくさん並んでいる。この中で帝釈天はえらいきりりとしたいい男という雰囲気でファンが多いらしい。ただ、乗っかっているのがすこぶる変な象の像である。あんな大昔じゃあ動物園もないから伝言ゲーム的に絵の象が伝わったためあんなにへにゃへにゃした象になったのだろう。イケ面のお兄さんが漫画に乗っているようで、少々こっけいな雰囲気もある。不動明王がなんとなく「あたしんち」のお母さんに似ているなどと馬鹿なことを考えていた。梵天の彫刻も鳥三匹の上にのっかっていて、その鳥が2羽「クワー」と鳴いて写実的で面白く、かつまたすこぶるかわいらしい。梵天は、大阪のおっちゃんというか、知り合いに似ていて関西弁をしゃべりそうである。あの猫じゃらしみたいなのはなんだろうか四天王が踏んづけている鬼もそれぞれ味があってよい。仏像は確かに素晴らしい。

日本最大という五重塔はそこらのビルより大きくて立派なのに驚く。1644年の再建だとか。あの新幹線から見える五重塔である。このあと通りがかった郷里の町並みを見ていて、五重塔より威風堂々とした立派な建物がない、ということに気がついて愕然とした。

池で甲羅干しをしていた巨大なすっぽんに遭遇し、目があった。あれにかみつかれたら痛いだろう。池はカメだらけだった。

はすの写真を撮ってきた。これが大変美しい画像で、弘法様にけっこうなものをいただいたという雰囲気である。

周辺は21日に市が立つそうで、古都の風情のあるにぎやかな市がどこまでも続いていた。一円銀貨のレプリカを500円で買った。ニッケル製なのか磁石につく代物である。銀ならつかないだろう。南門でしょうがの砂糖漬け500円もおみやげに買った。いろいろ店を冷やかして駅に戻る。11時に吉野家で豚丼330円を食べた。思えばこれだけで猛烈に動き回る一日だった。

 

京都府立植物園に地下鉄で移動する。北山まで280円か。高いなあ。広い植物園で、途中の森でまよって、もとの入り口に戻ってしまった。こんなところで遭難していてどうする。汗だくになって温室にたどり着いた。グラマトフィラムが3年ぶりに開花したというニュースがあって見に来たのである。グラマトフィラム・スペシオサムというらしい。なんでも地球最大の蘭というのを聞いたことがある。これがメインだったはずだが、花が遠くてよく観察できなかった。そのほか、咲いている蘭の花をいろいろ撮影して来た。デンドロやら、リパリスやら、バルボやら結構いい花をいくつか見ることができた。蘭の花は、あまり多いということはない。水が抜けたのでコーヒー牛乳1Lを飲んだ。

 

さらに18切符ということを利用して、山崎駅で下車し、徒歩10分、懸案だった大山崎山荘へいってきた。アサヒビール(え?、てっきり近所にあるサントリーだと思い込んでいた。だって、サントリーウイスキー大山崎ってあるからなあ。わし酒飲みじゃないんでどうだっていいんだが)大山崎山荘美術館である。関西の実業家加賀正太郎(1888-1954)によって大正時代から建てられた豪邸で、往時は1万鉢の蘭があった日本のラン栽培のメッカだったところである。今でも近隣の愛好家の好意で蘭の鉢が飾られている。それで蘭はちょっとだけあった。温室を再建し、ボランティアが蘭を育てて、温室を公開し、もっと盛大に蘭を飾ってくれればさぞかし我々蘭愛好家にとっては素晴らしい場所になるだろうなあ、などと考えていた。

美術品や建築はなるほど素敵なところだ。さらに有名なルノアールの裸婦像や、クロード・モネの睡蓮なんてものもあって、警備員まで居て、へー、こりゃすごい、とか驚いていた。

加賀正太郎は、育てていた蘭を美しい絵で後世に残してくれている。蘭花譜という。この著名な蘭花譜はたしかに素晴らしい絵画だった。写真ではああも蘭の質感にせまれないな、どと思ったりする。多くの写真は時代とともにめまぐるしく差し替えられていってもこの蘭花譜を差し替えることはできない。

蘭花譜にある画像は廉価な本として売店で2000円ほどで売られていた。私はどうにもけちなので手が出ないが、かなり心引かれる本だった。ところが「おーっと、なんとぉ33pの49番画像がさかさまだーっ!」(28時間経ってもまだ覚えていたか)。Epidendrum parkinsonianumみたいなやつだった(なぜだかクレヨンシンちゃんのぞーうさん、ぞーうさん、を思い出す花だ)。ああいう葉が垂れるエピデンドラムは蘭を相等みていないとわからんわなあ、とおもう。

オオヤマザキという個体名を持った蘭がうちにもあったなあ。バンダ・テレス‘オオヤマザキ’である。70年経って多くの人々に育てられ続けているすごい個体である。このほか、よく見かけるトリアネーのザ・キングも蘭花譜に素晴らしい絵があり、オオヤマザキのご出身だそうだ。すごいねえ。これをもっている人は実に多い。

このような蘭のメッカだったのだが、太平洋戦争により、多くの蘭が散り散りになってしまった。「蘭のために貴重な石油を消費することは世間に申し開きができない」と加賀さんは思ったのではないだろうか。なんにしても素晴らしい蘭の多くが現代に残っているという事実は、なんとも救われるような気持ちになる。今後もオオヤマザキの蘭にはあちこちで幾度も出会うことだろう。

 

それから旅が長い。電車6本(この日乗った電車は11本)を乗り継いで広島にやってきたのだった。日がとっぷり暮れてしまったため予定していた墓参りには行けなかった。

 

8月20日(月) 

強烈に暑い日がつづく。本日もよく汗をかいた。

表紙のカトレアがきれいに咲いている。

Lc. Aloha Case ‘#32’× C. intermedia var. delicateにもう一本花茎があらわれてこれで3本になった。結構な。

いまのところ調子の悪そうな蘭は見あたらない。戴いたコチョウランは安定してよい生育を示している。花茎は20cmになっている。花芽が変化して子株がでてきたものもある。切開手術は大成功だったようで、良さそうな葉が出てきて育っている。

 

 

休みを取っているので、10時起床、しかし延々仕事をしていた。時々蘭の世話をしたり、畑に灌水用の溝をこさえてバケツで水を55杯くみ上げたりしていた。原稿仕事なので、ぎりぎりと推敲していた。「これこれを代入して、式を整理し、これこれの式を得た」というのが英語で書けなくて往生していた。出来上がったものに再度目を通し、これでよし、やることはやった、と発送にかかる。とうとう原稿を送り、ファイルを確認して作業を完了した。21:05。7月27日以来延々やっていた作業が完了した。なんともう8月下旬じゃないの。俺の夏はどこへいった?ということは昨年も書いていた。休みを3日もぶっつぶしたものの、まあこういうのもええんじゃないかとおもう。

 

8月19日(日)

強烈に暑い日がつづくねえ。何にもしていない。夕方、本当に久しぶりに夕立が降ったそうである。2週間ぶりくらいの雨か?

 

 10時起床、11時から仕事へ。決戦であった。よく戦ったが、なおけりがつかず、明日の仕上げに持ち越し。23時に帰ってきた

 

8月18日(土)鷺草及びMaxillaria rufescens開花

強烈に暑い日がつづくねえ。風の通る家の中の気温が34℃に達した。雨がずーっと降らない。それでもまあ蘭は毎日朝晩のしつこい水遣りのおかげか元気に生育しているようである。

鷺草が開花した(今月7、今年106、新規28)。7月上旬に少し開花して、多くのつぼみがしけてしまったMaxillaria rufescensも再開花した(今月8、今年107、新規28)。

 

休みというのにおうちで仕事。32℃の風を通しながら仕事。朝10時から晩まで終わるまで仕事。明日こそけりをつけたい。暑いとどれくらい思考がにぶるものなのだろうか。意外にも34℃を記録した16時ごろ、比較的ましな着想を得た(2時間検討して、あとでばっさりすてることになるのだが)。夕方蘭に水をやり、畑にバケツ50杯くらい水をくみ上げ、食後19時からまた仕事。思えば7月末からずっと長い急坂を上っているような日々だ。坂の上の雲はみえない。むしろ絶壁ちゅうかんじで、頂上がみえない。近いのか遠いのかすらわからない。まあ登りましょう。

腰が引けて、気がそれて、他のことをやる、というのはよくあるパターンである。しかしいつかはけりをつけなければならない。

16個もの質問がある。考えて解答を書く。英語と数式で。データはうそをつけない。嘘はかならず見破られる。これら質問にしてもよくここまで痛いところをついてくる。すべてお見通しなのだ。ただ、よいものを書け、という愛情を感じる質問だ。レフリーさんたちはなんでこんなにも親切なんだろうか。メールで届いたこれらの質問は、受け取った中では最高のお手紙かもしれない。きつい、つらい、ごまかしがきかない、確かめられるところは確かめなければならない。けれどこういうのは本当は至福の日々、だったのかもしれない。もうこういうことをやらせてもらえなくなる日が迫っているのだろうか。あほでバカで怠け者だった私がここまではい上がってきたのだ。まだまだくらいついていたい。

風はあるが汗がでる。19時なのに30℃か。珍しい気候だ。20時から22時まで仕事。23時から3時まで仕事。3時で29℃か。「休みなのになんでー」などの泣き言が吹き飛ぶような問題を突きつけられて悶絶すること数回。まあ普段休みにすることなんざたかがしれている。その都度落としどころをたぐりよせ、ただ黙々とやっていた。計算、こうなっていました、計算、こういうことだと考えています、式変形、こうなってこうなりました、これこれは比例関係が、ちくしょう単語がでてこねえ。これまで逃げ回っていたわけではないが、腰は引けていたのだろう。コワイコワイコワイ仕事だった。やっと頂上が見えた。もう一日かかる。遠くに次の峰が見える。

 

 

8月17日(金)また猛暑日

Slcy. Hue Chen ‘Selection’はいい色である。こういう色はそうそうお目にかかれないというか、屋外にはあまり咲いていないタイプではないか、などと思う。光源によって色が変わり、はっとさせられることもある。

 

Lc. Aloha Case ‘#32’× C. intermedia var. delicateはいつも1花茎に2花だったとおもっていたが、今回はつぼみ3つを阿修羅スタイルで揚げてきている。そういう阿修羅花茎はもう一本出てきている。さらに1本出てくるかもしれない。ほんとによく咲いてくれるカトレアだ。かつて夏に見事に開花してくれた際も2花だったようだ。夏に強力になるカトレアなのだろうか。

 

本日も37℃だった。しょっちゅう屋外に出ていたが体が慣れてしまっているらしく気分は爽快だった。挑みかかった仕事にけりがついた。構想を得てから3年くらいかかったろうか。ものすごい技を繰り出してあれよあれよというまにやっつけていた。なぜこれほど手足頭が働くようになったのだろうか。しかし休みに入るというのにもっとも手ごわい仕事を討ちもらした。土日はなんとしても決着をつける。

 

株が大きく暴落したそうである。円高が相当進んだためらしい。チャートを見てたまげた。そろそろNYが開いてまたえらいことになったりしないだろうか。火消しに躍起になっているようだが、そういうのがまた不安をあおるわなあ。するとまた週明けがえらいことにならんか。

 

8月16日(木)猛暑日

本日は気温の日本最高記録を更新して40.9℃になったそうである。職場の屋外は気温が37℃というときに、やたら建物の間を行き来して、暑さを忘れるほどよく働く日々である。こっちは暑さどころではない。暑い空気に花の香りが混じる。さわやかですらある。あまり暑いせいか胡蝶蘭のつぼみがしけてしまった。デンファレは新たに花芽がでてきた。葉が焼けないように水をこまめにやっている。

 

8月15日(水)Cocrianthes discolor ‘Lil’ AM/AOS x amazonica ‘Best’及びEpi. sophronitis var. Verithii開花

強烈に暑い日がつづくねえ。雨がずーっと降らない。それでもまあ蘭は元気に生育しているようである。

Cocrianthes discolor ‘Lil’ AM/AOS x amazonica ‘Best’が開花した(今月5、今年104、新規28)。ちょっと弱っているように見えるのが気になる。

夜になってEpi. sophronitis var. Verithiiも開花した(今月6、今年105、新規28)。

 

8月14日(火)Epi.? 'Hanakoujou'開花

強烈に暑い日がつづくねえ。日光の強さがすごい。それでもまあ蘭は元気に生育しているようである。

Epi.? 'Hanakoujou'が開花した(今月4、今年103、新規28)。

 

庭のまだ細いにんじんを食べた。まびいたものらしい。甘くて香りが強くてうまい。

ルコウソウなるものが開花しているらしいがまだ確認していない。

 

8月13日(月)

Slcy. Hue Chen ‘Selection’(注:Slc. Yeong-Huei Chen‘Selection’)は126mmに達した。もう一輪も120mmもある。そういう大輪が2輪ずつ年2回も咲くという株はうちではあまりない。バルブを観察すると、シースもなしに開ききっていない葉からにょろーんと花茎がでてでかい花がでろんと咲いている。なんとバルブについている皮がまだ青々している。普通たくましく太ったバルブが出来る頃には1番目2番目のはかまのような皮は枯れてくるものなのだが、そうなることすら待たず、やわやわなバルブからいきなり「まあ、ともかく花」「駆けつけ2輪の大輪」という雰囲気で咲くのである。まことに珍しい。シースがでて、バルブがムキムキになって、一体何時になったらあの立派なシースにつぼみが入るのか・・・と待たされて忘れた頃に花が出るというようなバルブもあるのである。

前回よりも葉が大きくなっているので、今後ますます立派な花が期待できそうなまことに面白いカトレアである。

 

トップページ交換を毎週やっていたのであるが、このたびのフォーミディブルはことのほか強力で、見れば見るほど味わいのある花だねえ、と一人悦にいってそのままにしているのであった。画像のストックがあまりないということもあるが。

 

 

 

8月12日(日)Epic. Kyoguchi ×C. walkeriana var. alba開花

朝から晩まで4回も水遣りをしていた。考え事が多くて水遣りやら、草抜きやら、料理やら、本日は理科実験に網戸の網の張替えまであった。

Epic. Kyoguchi ×C. walkeriana var. albaが開花した(今月3、今年102、新規28)。年二回くらい咲いてくれるカトレアらしい。

 

昨日開花したSlcy. Hue Chen ‘Selection’(注:Slc. Yeong-Huei Chen‘Selection’)はゴージャスな色合いである。真夏にこういう派手なものが咲いてくれるとはありがたい。

 

仕事の決戦をひかえて心ここにあらずという日々であるが、野菜は待ったなしで出来るため、せっせとトマトやらスイカやらを食べる。スイカは近所で1500円ほどしている。トマトは1つ100円ほどらしい。そういう高いものかとありがたがって食べる。

 

8月11日(土)Slc. Yeong-Huei Chen‘Selection’開花

朝から晩まで4回も水遣りをしていた。考え事が多くて水遣りやら、草抜きやら、料理などしかすることがない。

Slcy. Hue Chen ‘Selection’(注:Slc. Yeong-Huei Chen‘Selection’)が開花した(今月2、今年101、新規28)。真夏にSlcの結構大きな花が咲いてくれるとはなんとありがたい株か。購入時の花からわずか5ヶ月で開花してくれた。この株はしょっちゅう花を見せてくれそうである。これはいいものを手に入れた。買うときは内心(まーたカトレアを買うのか。ええんか、カトレアだらけになっても。800円か。びみょーなところだ。しかしバルブの割りにやたら花が大きくて色合いも見事だし、しょっちゅう咲いてくれそうな雰囲気もある。うーん)と悩んだ挙句手に入れたという経緯がある。めずらしくばくちに勝ったという買い物だった。

 

縁台に座って横のカラーの葉陰の下を見ると、何かのバルブが転がっていて、葉が出ていた。拾い上げてみるとオンシジウムスイートシュガー?の元気そうな葉が2枚でた新芽が植え替えの時に放り投げたバックバルブから出ていた。バックバルブを見てどのオンシかわかるというのも、このランを相当好きだからだろうか。2001年東京ドームでオンシ、ジゴペタラム、カトレアの3株1000円で手に入れた1つである。以来毎年律儀に咲いてくれる。2株にわかれて、1株は咲いてもらわれてゆき、1株には花芽がある。この新芽をミズゴケでつつんでプラポットに植えておいた。誰かの大切な一株になるのだろうと思う。オンシジウムというのはなんというか、バルブといい、花茎の姿といい、花とその色合いなど大変好ましい。カトレアほど数は増えないが、ちょっと変わったものなどは手に入れておきたいと思う。そういえばリップが黄色で他が黒、という面白いものがあった。あれを手に入れたいなどと思った。

 

夜な夜な畑に水遣りに行っている。裏山をライトで照らしたりと害獣抑止、治安出動という雰囲気もある。田舎とはいえ近所で車上荒しなどが出て治安も悪くなった。畑の横には1mほどの落差があって清流がこんこんと流れている。これをバケツですくって畑にくみ上げていた。本日見るとサツマイモの根元が流されて大きな芋が剥き出しになっていた。これはもう食えるという雰囲気の大きさである。サツマイモが一気に採れても置き場所に困るので出来ているものからせっせと食べるというふうに利用しようなどと考えていた。市場価格が高い今ごろ採って食べるのは価値があるか。

先週からみていたスイカの大きさが変わらないので、叩いた音を聞いて取り入れることにした。本日2個。これで3つ採れた。

トマトの量産が続いている。1個100円という雰囲気の形の良いトマトがいつも山盛りにある。

さやインゲンをせっせと収穫している。モロヘイヤもよく採れる。ナス、ピーマンなどもぽつぽつ採れている。

 

 

8月7日(火)

夜に水遣りをするくらいである。

月下美人2花開花。あまりニュースバリューもないなあ。

 

8月5日(日)

昼に水遣りをするぐらいしかすることがない。あちこち蘭の場所を換えた。

本日は有馬高校蘭展の画像をラン見物に貼り付けていた。

 

夜中激戦の末難航していた仕事をやっつけた。バンザーイ。激闘3時間。何で土曜の夜に。だが、最大の決戦はお盆前にある。これがきつい。

家でくすぶっているのもよろしくないので汗をかくことにした。汗を上手くかけないと夏は堪える。当分乗っていないちゃりんこを整備して街に出かけることにした。だがタイヤはべこべこなのに空気入れが腐っていた。探し回って100円ショップで買った携帯空気入れを持ち出し、苦労して空気を入れた。なかなかよく出来た空気入れであった。これで相当汗をかいた。ためしにのって近所の川を見に行った。期待したオオサンショウウオはいなかったが大きなカメがいた。こんな山奥にも北米原産のアカミミガメがいるのであった。どことなく甲羅が長細いがひょっとして交配種か?。何を食っているのか観察していたが、川底の藻を食べているように見えた。悠然として、息継ぎに浮かび上がってきた際に私を目視したのか「急速潜行!出力全開」とばかりにスイーっと水中を遠ざかっていった。野生のカメはたくましいなあ。

チャリンコに油をさし、タオルを鉢巻代わりにして出かける。ただいまの気温32℃、南風の逆風で汗がどんどん渇く。20分も走るとけつがいたくなってきた。とうぶん乗っていなかったから相当なまっている。やめときゃよかったー、と思いつつ進む。町まで15km、全行程36km、これまでの基準から言えばサイクリングにもならないちょっとそこまで、という距離ではある。いろいろなことを考えながらすすむ。溜池でもカメを見かけた。ここ2週間で4匹も大きなカメを見かけた。最近子供がカメを飼わなくなったからかなあ、などとおもう。私は子供の頃カメが好きでしょうがなかったので飼うのはいいがよく死なせてしまっていた。あれで生き物を大事にするようになったような気がする。カメにとって子供は天敵でなくなったということか。

ほどなく市内に到達し、宝塚園芸サービスにゆくが特段目立つランの出物はない。

図書館でたっぷり時間をかけてどんな本が出ているかみてまわった。

次にパソコンパーツ屋により小型音楽プレーヤー1480円とSDメモリを購入。1GBのメモリってのは1299円(下のシールは2990円:あやしいなあ)で買えただろうか。これはバッタモンくさいが、安いので買ってしまった。1GBのメモリをすげーといっていたのはついこの間のことである。1GBのHDDはだいぶ前だがすげーとか言っていた。100MBのときも10MBのときもその都度すげーとか言っていたし、1MBのフロッピーだってすげーと言っていた。そろそろ1TBのHDDが出る。これには実のところすげーとはいわなかった。寺でバイトってしんどそうだ。そんなにあってなんに使うんだろうか。映画を200本入れる?。映画見ないなあ。どんなに気にいった映画でも人間使った金ほどは見ないんじゃないか。どんないいシステムそろえたって若い頃彼氏彼女と見に行った映画に勝るものはないって。パソコンもいろいろ並んでいたけれどさっぱり煩悩しなくなって助かる。もう十分。現状で使い倒しているからこれでOK。ビスタも興味がない。うちはここ6年ずっと2000だ。

さらにブックオフにゆく。ねっちょり時間を使って本を見て廻る。チャリンコをこいでみて思うのは、石油がなくなったら今日みたいにチャリンコをこぐんだわなあ、ということだった。しかし石油がなくなったら、という心配をしている本が見当たらない。不思議なことである。私の生きている間に石油はなくなるのだろう思っている。さて何が起こるか。「株はあと2年でやめろ」という本があった。2008年のことを言っているらしい。

帰り道は強烈な上り坂ではじまる。まだ汗がだらだらおちてくる。サドルがけつにくいこむ。リュックがやたら重く感じる。それでもこの坂を押してあがるような無様な真似はしないぞ、とかいってなんとか登りきった。風景を楽しむような余裕がなかったなあ。ありがたいことに目には焼き付いている。自転車ってきついなあ、とおもいつついつのまにか帰り着いていた。体重は2.4kgおちていた。やたら水を蓄えてぷよぷよしていたらしい。

買って帰ったバッタモンメモリにデータを落とし、新調したプレイヤーで聞いてみた。イヤホンがついていないので、古いのをそのまま使うのだが、音が素晴らしくよくなっている。これまで聞き飛ばしていやピアノソナタの音の1つひとつにしびれる。たいしたもんですなあ。キター、Mozart K310。くゎー、たまりませんなあ。買ってよかった1480円。これほどのプレーヤーが売られていたとは。

 

 

8月4日(土)

曇りである。蘭を展開した。先週植え替えたものも釈放。フォーミディブルもそろそろ終わりなので釈放。

月下美人のつぼみが3つ。台風で家に入れていた影響がなければよいが。

蘭の迷宮の蘭展記録を1つ追加したが、多量のアップロードのため公開はいつになるやら。今回は種々感想を記述した。

 

蘭の位置をあれこれと入れ替えて最適化をした。みるとPleione maculateの葉が枯れている。プレイオネ・マクラタは一昨年200円で購入して、昨年多数のつぼみを出しながらも暑さのためか1輪しか咲かなかったという苦い経験がある。葉が枯れたのはバルブが完成したからだろう。見れば完成したバルブに新芽がいくつもある。どうもこれらのバルブは分けておいたほうがいいらしいようなことを本で読んだ。バラしてみると6個になった。小さいプラポットを用意して、ヤシガラを下に入れ、上にミズゴケを置き、ミズゴケでバルブをくるんで植えた。葉がないのだし、涼しいところが良かろうと日の当たらない隣家との間の通路にトレイを置いてマスデバリアとともに置いた。この通路はものすごくよく風が通る。常に風があるというくらいの涼しい場所である。夏場日があたるとよわるくらいのマスデはもう夏休みとしてこういうところにおいてしまう。Pleione maculate6株になったのは恐ろしいが、この時期に下手な植え替えをしたため全滅してしまうかもしれない。

 

大きな鉢3.5号にバックバルブばかりが鉢を横切って一直線に並んでいた葉が1枚きりの(「葉古古古古古」という状態)Bif. harrisoniaeを植え替えた。この鉢はI氏からもらったもので、新芽が出てきたので植え替えることにした。古いバックバルブは取ってしまう。2.5号リサイクル素焼鉢に杉皮、ヤシガラ、ミズゴケの順に入れ、株の根をミズゴケで巻いて植え込んだ(「葉古」という状態)。

 

先週だったか、筒状になっていた胡蝶蘭の葉を、焼いたカッターで切開手術をした株から新しい葉がでてきた。あんな筒状では葉が出来なくて株が弱ってしまうと思ったがやはり切開手術をしてよかったらしい。

 

どこかへ出かけようかとも考えたが結局家出雑事をやっていた。気温があがって汗だくになるそういえば10日間ほどエアコンを使っていない。体にかっと熱がこもり汗が噴出すが、まあしょうがないかと汗をながれるままにしてあれこれ作業をする。

合間に畑を見に行ったりすると、スイカが食べられるくらいに大きくなっていた。当選確実という言葉が脳裏をよぎる。「収穫確実」という雰囲気のスイカが5個もある。とりあえず1つ収穫して投資分(苗3本600円)を回収した。損益分岐点を大きく越えて大幅な利益が見込める状態である。8月いっぱいでいったい何個取れるのか、というほど小さい玉がいくつもある。トマトも量産体制に入っており、テーブルのボールに山盛りになりつつある。インゲン豆ももうじきたっぷり取れそうだ。庭はにんじんがかなりおおきくなってきた。畑というものはいいものだなあ、と思った。

 

なにやらリストがよく壊れる。巨大なファイルでそろそろ限界に来ているのかもしれない。戸籍であり、情報の目次であり、主計局というか会計でもある。そういう肝心かなめのファイルが働かなくなるとちといたい。そろそろこのサイトも崩壊の兆しが、などと思うのである。

 

C. labiata S/A ‘Zonada Mate’× tipo ‘Dina’にシースが出た。やれやれ、出たか、よかった。C. labiataのにはシースはないようだ。今年カトレアは苦戦していないだろうか。

Onc. Sweet Sugar?に花芽が出た。オンシ類の花芽はこれで6種類になった。

 

 

 

8月3日(金)

当地ではちょっといい風、という程度の台風は去った。蘭の棚を倒してまで待っていたのだが、まあ何事もなくてよかった。

 

佐藤雅美著、物書同心居眠紋蔵シリーズが大好きなのである。主人公紋蔵がお役人として裁判の判例を繰って繰ってという生活の中から、種々の事件を人情をもって解決する真摯な姿に感動を覚えるのである。最新刊「白い息」に「蘭長者蓑吉の名誉」とかいう話がある。蘭で儲けた長者らしい。江戸時代に江戸の郊外には大規模な園芸店があったそうだから、ずらーっと東洋蘭が並んでいて、ちょんまげのおじさんがひしゃくで水をやっているところを想像してしまった。松葉蘭10株に三千両を積んだ、とかいう話で、私はまず「マツバラン?なんじゃそりゃ」と驚いた。まったくわからないのである。「どうも地面に生えているらしい。こりゃシンビジウム属かなあ」「三千両ってのが尋常じゃない。1両って当時の感覚で1万円じゃきかなかったと思うが、三千両ってのは3000万円以上か?。フウランに1千万円てのは聞いたことがあるが、もう高額の蘭の世界はさっぱりわからないねえ」と読み進んでラストのおちにかかると「げぇ!」と声が出た。「こんなのは蘭好きのすることじゃねえな」という感想をもちつつ(話は面白かった)、調べてみると松葉蘭はシダの仲間だった。マツノハランというのはラン科にあるらしい。日本語は好きだが、私にはギリシャ語やラテン語のランの名前のほうが馴染み深い。

 

8月2日(木)Milt. Summer Time ‘Flash Moon’に花芽

台風が接近中である。南からの湿った風が暑い。蘭は用心して全部屋内に取り込んだ。Den. Pramort開花中のがえらく立派に見える。いまごろ立派に咲いていると、現在成長中のバルブからも11月に開花するため、1株での年間開花期間は10ヶ月に達する可能性がある。

 

いただいたばっかりのMilt. Summer Time ‘Flash Moon’に花芽が出ていた。オンシ類の花芽はこれで5種類になった。

 

こんどこそPaph.Deperle(delenatii x primulinum) を株分けしよう、とひん剥いてみたが、根が強固でまったく分かれる気配がない。結局3.5号プラポットに昇格して単なる植え替えに終わった。最近根性がない。

 

8月1日(水)Paph. primulinum var. purprascens開花

Paph. primulinum var. purprascensが開花した(今月1、今年100、新規27)。世継ぎがもうかなり大きいので来年も磐石に咲いてくれそうだ。優秀なパフィオである。

最低気温は15℃だった。

 

7月31日(火)

今朝の最低気温は14℃だった。大阪の最低気温は19℃で7月としては50年ぶりの低い温度だったそうである。現在23時の温度は16℃。真夏とは思えない気温である。満月に快晴の空が絵のように美しい晩だった。

天気が良くて気温が低いという現在の状況は蘭にとっても農作物にとっても最高のコンディションではないだろうか。

今年は最高の成績、とおもいきや、昨年は7月25日に100件開花を達成していた。

 

オンシジウム3株が花茎を伸ばしている。Onc. Gower Ramsey ‘Stella’Onc. ? ‘Genki’Onc.aquinii 、が8月開花予定だ。

Paph. primulinum var. purprascensも開花が8月にずれ込んだ。

 

昔の日誌を見て笑っていた。今年面白いものを書いたかなあ。

 

 

7月30日(月)

I氏にいただいたデンファレ蘭丸の再起を賭けた新芽があかんようになってしまった。暑い日があってその頃水切れさせてしまったように思う。肥料をやってからという説もある。これは痛恨、回復不能のダメージだ。期待が大きかっただけに残念である。デンファレでこうまで見事にしくじるとは思わなかった。

 

胡蝶蘭に花芽があるのはCake2とCake3で、いずれもピンクっぽい色をしている。

 

 

 

7月29日(日)Slcy. Hue Chen ‘Selection’につぼみ

久しぶりに家にべったりいて蘭の世話やら家の掃除をやっていた。

 

昨日購入したC. harrisonianaの画像を撮影する。こんど何時咲くのかわからない。ネットでの画像量がやたらすくない蘭ではないだろうか。持っている本に画像がない。購入時も、「ほんまに原種か?、インターメディアの季節はずれ咲きでは」などと妙なことを考えていた。ほとんど白い色をしている。通常はピンクらしい。株は立派で大きい。

 

Slcy. Hue Chen ‘Selection’(注:Slc. Yeong-Huei Chen‘Selection’)につぼみが出た。神戸蘭友会での購入から4ヶ月少々。かなり楽しみにしている。

Epic. Kyoguchi ×C. walkeriana var. albaにもつぼみが出た。今回は前回よりパワーアップしているようだ。

 

不調だったDiaca. Colmaniae を植え替えた。素焼2号、杉皮ふた、ヤシガラ、ミズゴケ。

 

5月21日にいただいた胡蝶蘭は1株枯れて4株がのこり、以後順調ではある。Phal. ? ‘Cake3’に花芽が出ているのを見つけた。花芽の色や、葉の裏、根の先端などが赤いのでピンクの胡蝶蘭じゃないかと思う。以前風で落っこちたことがあって鉢の下が割れてなくなっていたので植え替えた。この胡蝶蘭は葉がチューブ状になっていて新しい葉が出にくい雰囲気である。カッターを焼いて切開手術を施してみた。蘭にしてみればいい迷惑かもしれない。もう一株にも花芽が出ているようだ。12月には咲いてくれるかもしれない。

 

Phal. Musashino x Hakuhoh-Shiranami を植え替えた。もらったまんまの植付けで中がどうなっているかわからなかった。鉢からはずしてみて、根ばかりで、ミズゴケの痛みも少なく、劣化はすくなかった。葉がすくなくて弱って見えるのは、植え替えをさぼりすぎたのではなく、花の観賞しすぎなのだろう。かわいそうなことを下。根をじょきじょき切って3.5号素焼、杉皮ふた、ヤシガラ単用。

 

バックバルブ伏せをしていたもののうちいくつかを鉢に植えた。

Slc. Rocket Burst ‘Deep Enamel’ HCC/AOSをリサイクル素焼2.5号、杉皮ふた、ヤシガラ、ミズゴケ。

C. skinneri カトレア スキンネリ 1株リサイクル素焼2号、杉皮ふた、ヤシガラ、ミズゴケ。

カランセの高芽、リカステのバックバルブの上部から高芽、これらセットでプラポット3号、ミズゴケ。

ワルケリアナ2株、それぞれリサイクル素焼2号、杉皮ふた、ヤシガラ、ミズゴケ。

I氏のデンドロを3号鉢から2.5号鉢に植え替え。バックバルブで不要とおもわれるもの3本ほどむしって取った。リサイクル素焼、杉皮ふた、ヤシガラ、ミズゴケ。

 

6月18日大阪府堺市H様よりいただいた期待の株ほぼすべてに新芽が出ていた。

C. Candy Tuft × C. intermedia ‘Sherry’

C. intermedia var. aquinii coerulea × C. novilior coerulea ‘Blue Blood’

Pot. Free Spirit ‘Carmela’

C. loddigesii var. alba Shirayuki’ ×  Santa Maria

C. intermedia var. orlata coerulea ×C. intermedia var. aquinii coerulea

 

夕立が来る前に、尿素、硫酸アンモニウム、過燐酸石灰、硫酸カリウムを20gぐらいずつ、HB101もいれて50Lの水に溶かして蘭やらにんじんやらサツマイモにかけておいた。ほどなく雨が降ってきた。液肥の効きがやんわりしていいんではなかろうかと思って雨の前にやった。気温は24℃。少々下がりそうだ。

 

蘭の登録やら生育管理記録など、サイトの事務処理がええかげんになっている。だれがこまるわけでもないので、まあぼちぼちやる。

 

「萌える男」という本を読んだ。萌えるってのは「岩ばしる垂水のうえの早蕨の萌え出る春になりにけるかも」という具合に植物が芽を出すという意味合いだったように記憶している。本書の「萌える」というのは受験時代を思い出すに、よくわかる感覚ではある。この本はなにやら難しく書いてあってなんども振り落とされそうになっていたが、その主張はおおむね納得の行くものだった。私も当初は「萌えなんぞは二次元キャラへの現実逃避であって、競争力の低下を招く」などとおっさんらしいことを思っていたのだが、そういう自分は実は最大限「萌え」を利用して現実と闘う精神的な力を得ていたように思う。「萌える男」の犯罪率が世間に思われているよりはずっと低くて、実は仕事での生産性が高い、というデータでもあればこの本の主張は市民権を得るのではないだろうか。現時点では本書は「萌え」たことのある人間にしか理解されない恐れがある。

蘭に「萌える」というのも、巷間に言われる「萌える」とあまり変わったところはないと私は感じている。対象が蘭か2次元キャラかという違いはある。萌える蘭というものに萌える。花芽や新芽、根が出るのを見るのが蘭の醍醐味である。

 

7月28日(土)村上園芸(明石DAIKI)及び明幸園

I氏のおさそいで明石DAIKIで開催中の村上園芸蘭展を見物に行った。おっさんふたりで王将にて食事を済ませ、阪神高速玉津インターを降りて明石に向かって南下、ザめしやを見て左折し、川を渡って少し行った信号を右折、ほどなく目的地に着いた。

なんだかよさげな雰囲気のカトレアがあって、我が家のC.intermedia var alba?に雰囲気が似ている。こちらのほうが背が高く、花には明瞭な芳香がある。名札を見るとよく知らない原種らしい。値札がないので、値段を聞いてこれをまずゲットした。

C. harrisoniana カトレア・ハリソニアナ

 2007年7月28日 村上園芸(DAIKI明石) 1200円

 25cmの細長いバルブによく開いた長さ15cmくらいの葉を2葉を頂生し、その間から15cmの花茎をのばし、8cm径の香りの良い花を3つつけていた。

 

 このほか、種名の定かでないプレウロタリスを買った。

プレウロタリス ?

 2007年7月28日 村上園芸(DAIKI明石) 500円

 一枚葉から、花茎がでて小さなつぼみがたくさんついている。

 

 前回の村上園芸蘭展見物で知り合ったヒーヤンというお兄ちゃんがここで合流しておっさん3人で蘭見物をしていた。ヒーヤンは、朝霧駅から歩いて明幸園朝霧店を見物し、100円のデンファレなど3株を購入して徒歩でDAIKI明石店まで来られたそうだ。村上園芸ではパフィオやらを買っておられた。

 トレイ3つもパフィオをごっそりかってゆかれたおじさんをみかけた。すげー、あれ全部もってかえるんかいな。村上社長があっちこっちと駆けずり回りながらパフィオを集めておられた。ご自身で交配されたパフィオがある蘭展で最優秀になり、ニューオーキッドにおいて褒めちぎられている写真つきの記事をあとで村上社長からみせていただいた。そういう正統派蘭愛好者からすると、安いものをあさっている私などは、まあ蘭好きのおっちゃん、という程度の愛好者である。この世界は大変打ち込んでおられる人がいるようだ。

 買い物を済ませて、3人で明幸園を目指す。34℃という気温のせいか少々閑散としていた。売り場はかなり暑かったが出物が多かった。

 オベロニア ?

 2007年7月28日 明幸園 380円

 棒状の葉5cmがいくつかでていて、付け根から毛虫状の花房が4cmほど出ていた。

 

 ミヤマウズラ

 2007年7月28日 明幸園 480円

 シュスランぽい雰囲気の葉っぱにシュスランぽい花茎が伸びていた。花はこれから咲く。

 

 フォーミディブルの株が480円だの、マキシラリア・テヌイフォリア290円だの、なにやら出物が多かった。1000円以上買うとカラーの球根をくれるというので、たまねぎの球根285円を買い足して球根をもらった。

 

 我が家に戻り、庭の蘭をめぐりながらさらに蘭談義を重ねる。途中Sl. Orpettii に花芽が見つかった。

ひーやんにはBlc. Magic Meadow ブラソレリオカトレア マジックミドウEpi. porpax aureum エピデンドラム・ポーパックス オーレアムPhal. ‘Moss Ball’ 苔玉胡蝶蘭などをもらっていただいた。

 

 I氏との飯時の話題として、飛行機を水素で飛ばせないか、というアイデアが出た。飛行場に太陽電池を敷き詰め、電気分解で水素を溜めておき、これを航空機に積んで飛ぶというのは無茶か。水素燃料飛行機ってのは聞いたことがないなあ。ロケットは水素で飛ぶものもあるのだが。

 

 

7月27日(金)奄美アマミのフウラン開花

奄美のフウランが開花した(今月15、今年99、新規27)。どうしたものか、うちのフウラン 風蘭(富貴蘭)とは必ず開花時期がずれる。

 

デンファレが美しく咲いている。新芽がだめになったデンファレもあった。別の芽を出してくれている。このデンファレは大事な古株じゃなかったろうか。

 

ダイエーに件のデンファレ見物に行ってみると、2株残っていて980円になっていた。

 

明日はI氏のお供で明石のDAIKIで行われている村上園芸の蘭展に行く予定である。明幸園にもまわる。Iさんよろしくお願いいたします。

 

ケータイへの注意をきっかけに暴行事件が起きた尼崎に仕事で行ってまいりました。かの電車事件、飲酒ひき逃げ直後衝突事故など、ひっとして大変危険な場所なのではないかとびくびくしつつ園田駅に降り立ったのでした。橋を渡ると広い川の水面がみえました。意外なほど透明な水で、大きな鯉が何匹も川底のえさをあさっているのがくっきりと見え、驚いたことに大きなカメが、たぶんクサガメだとおもうんですが、長楕円形の甲羅を悠然とたゆたわせていました。遠い昔に見たようなきれいな川です。仕事を追えて西日の中でみた川の水はなぜか透明ではなかったのですが、別のカメが、多分アカミミガメだとおもう丸い甲羅のこれも20cm級の大きなやつが泳いでいました。一方、住宅地のどぶ川はくさくて生き物なんかいない悲しく汚いはきだめだという先入観があったのですが、ここのどぶにはおたまじゃくしやめだかのような小魚がふんだんにいました。公害が社会科の教科書にどーんとクローズアップされていた世代の私は、ここ尼崎の川が今はこれほどきれいなことに、おそらく人々の努力でゆっくりときれいになっていったのではないかとおもうのですが、そのことが我々の社会にある種のたのもしさを感じさせてくれるのでした。

 

仕事でよそのじいさまに、エネルギーの有効利用についていろいろ説明しておりますと、「飛行機なんぞむりにとばさんでもええ。不必要に飛ばすな」というようなことをおっしゃってました。あと5年ほどで海外旅行に気軽に行けなくなってしまう、ということを感じているのですが、具体的になにがおきるのか考えてみました。飛行機は電気で飛ぶことは出来ませんね。軽油のようなものをジェットエンジンで燃焼させて飛んでいます。東京大阪間をとべば新幹線の7倍CO2を出すといいますから、海外旅行というのはCO2だしまくりの行為というわけです。それだけに石油の値段で利益が大きな影響を受けるわけです。本日、日本のサッカー選手が飛行機がらみのトラブル(予約や手配云々いってましたねえ)で大事な試合の前日かなり遅れて現地入りするという報道がありました。一方で、機体の整備不良でプロ野球の試合が中止になるというとんでもないことが起きました。これから感じたことは、案外予想よりもごくごく近いうちにおいそれと飛行機に乗れなくなるかもしれないということでした。航空業界というのは激烈な競争をしてかなり無理をしているとおもうわけです。そういう無理が本日のような実害となって現れ始めている。今年かなりの数の飛行機が落ちてますね。ついこの間もタのトラブルで一日中日本の航空路線が麻痺していたようなこともありました。このたびの石油価格の上昇で航空業界はますます経営が苦しくなってくるのではないでしょうか。合理化、整備のコストダウン、もろもろのコストダウンを何年もつづけてきたところです。それをあざ笑うように石油の価格がどんどん高くなる。石油が今後安くなるというようなことはあるかもしれませんが、基調として今後も高くなりつづけるでしょう。よほどの体力がなければ航空会社はばたばたとたおれて数が少なくなる。すると便数も少なくなり、航空料金はどーんと上昇して、よほど利益の上がる仕事でなければ渡航は出来なくなる、と考えているわけです。そのため、韓国往復19800円、サイパン39800円、上海29800円、あれやこれやはもうなし。海外旅行は、「兼高香世界の旅」のようにあこがれだった時代にもどるわけです。当時ヨーロッパへの片道は50万円ぐらいでした。それでもいいんじゃない、と私は思います。

 

こんな話もありました。「生活の質を下げましょう、とは政府はいえないでしょう」。否応なく生活の質を下げなければならない時代がたくさんあったと思うのですが、「わしらはいつもプラス成長を約束しない政府は許さん」という考え方には傲慢を感じるのです。政府指導者が大変な努力をして侵略してくる帝政ロシアの軍隊を破り、大変な外交努力の末にやっとの思いで講和にこぎつけたとき、「勝ったのに賠償金が取れないとはどういうことだ。政府はばかか!。わしらはアジアの、いや世界の一等国になったのだ」と明治の人たちは暴れて日比谷焼き討ち事件を起こしました。ここが太平洋戦争の出発点だったようにおもわれるのです。ひるがえって今日の政府をたたくわれわれですが、このわれわれにしてこの政府あり、というふうに思えるのです。テレビ映りの悪い大臣が見ている国民に「なにぃ、ゴラァ!」と言わせる発言をするとその大臣は大変危険な状況に追い込まれてゆくようにおもわれます。徹底マークがついて、どのようなミスも見逃してはもらえず、毒蛇風呂にでも入ってしまっているように見えます。われわれは自己の問題からは目をそらし、他人のあらに鋭くクレームをつけるという性癖を獲得しつつあるようです。我々日本人がこうで、そういう我々から人材がでて、そういう人材を我々がすりつぶす、ということをしていれば政治はどうなるんでしょうか。ただ、たまたま妙な人が立て続けに出ただけで、本当は人的資源において「とてつもない日本」であっていただきたいとおもうわけです。

 

かの有名なスケーターが酒気帯び運転で検挙され、涙の会見をしてくれたたおかげで、かなり多くの人が死なずにすんだのではないか、ということを思った。

 

 

 

7月25日(水)Den. Jacqueline Thomas x bigibbum開花

Den. Jacqueline Thomas x bigibbumが開花した(今月14、今年98、新規27)。

 

家を出て庭をつっきっているときに右腕を蜂らしいものに刺された。蜂にさされるのはまあわるいことじゃない、という程度のできごとになっている。毎年刺されている。

 

7月23日(月)Ornithophora radicanse及びDen. Pramort開花

Ornithophora radicanse及びDen. Pramortが開花した(今月12-3、今年96-7、新規27)。

ダイエーにデンファレ見物に行ってみると、2000円はさすがに高いと思ったのか1280円になっていた。私は、まだ高いんじゃない、などと思っている。適正なところで980円から780円の間か。見切り価格300円で出ていたら買いを入れようか、などと考えている。

 

ケータイへの注意をきっかけに暴行、という報道がテレビの画面に見えた。気になって調べてみると、「同僚の車内でのケータイの通話を注意され、川西市の酔っ払い会社員実名報道(29)が逆上のすえ、注意した千葉市在住の会社員(44)を尼崎駅のホームに追い、むなぐらをつかんで鉄柱にたたきつけ鎖骨を折る重症を負わす」、とのこと。まあ、けだものよ。こわいわねえ、JR宝塚線って。こまるわあ。(ただの一度も暴力の現場を見ておらず、毎日快適に通勤しているのであるが)

こういう事件になると某掲示板がコワイ。住所やら電話番号、会社名まで掲載されていた。あーあ。そういうことするのいけないんじゃあ。

乗客のケータイ通話には慣れてしまっていたのだが、かなり怒られる地域があるというのを思い出した。2001年だったかに札幌に出張したおりのことだ。札幌はかつてお武家様が多く移り住んだため妙に民度の高い地域である。いまはどうなっているか知らないが、たとえば電車がこんでいても譲り合いの席を空けてあるのだった。私の感覚ではそれらしい人が来たら立って譲ればいいと思うのだが、かたくなに空けてあるのである。そういう決まりなのか、と私も空いた席のまえで立ってすごしていた。また、市電だったかで同僚のケータイに仕事の電話がかかってきた際に、まずアナウンスで「車内でのケータイ電話の通話はご遠慮ください」というのが2回あり、しまいには信号待ちでこちらを振り返ってにらみを効かせた運転手が、どすのきいた声で「こんなにいってもまだきいてくれないんですか・・・」ときたもんである。通話中の同僚とコワイ運転士の間にいた私は身の置き場がなかった。それぐらい車内でのケータイ通話はご法度という地域があるということは知っておいたほうがよそへいって恥をかかなくていいのではないだろうか。

それにしても酒でえらいことになる、という例が多くないか。その近所ではついこのあいだ飲酒運転で3人お亡くなりになっていた。痴漢でつかまる人も多いねえ。私、お酒より牛乳のほうが好き。

 

7月22日(日)

ブラッシアの近くに来るとシナモンの香りがした。花をかいで見るとシナモンの香りはかすかで、バニラに近い香りがした。午後にはまったく香りがしなくなった。時間によって香りがどんどん変化しているか、まったくなくなるのではないだろうか。

フウランは過去最高の出来というか、昨年同様すばらしいさきっぷりである。盛りは過ぎたがなおすばらしい。

図書館で「はじめての蘭」という本を借りてきた。まさかこのサイトのガイドブックでもあるのか、とたわけたことを考えていたが、普通にランの指南書らしい。冒頭に皇族の欄愛好家の方へのインタビュー記事があり、なんでも200鉢をそだてておられるそうである。さすがつぼを心得たお話をなさっておられる。

 

「パラサイ・トシングルの時代」という本を借りてきて、ぱらぱらと拾い読みをしていた。ああそういう余裕のある時代もあったなあ、と対この間のことが遠い昔のようだ。働いている独身未婚親と同居の、とくに姉ちゃんたちは、当時はどうも余裕のある生活をなさっていたそうである。それがいつしか、養分を供給してきた父親世代がしぼんできて、先の心配が種々さまざまに見えてくると「負け犬」とか書かれ、最近ではとうとう「オニババ」だのとか書かれるようになってしまった。一方「萌える男」なる本も借りてきた。こちらは「萌える男は正しい」などと書かれて元気がよい。「マザコンは買い」とかいう本もあるなあ。浮世はうつろいやすいなあ、などとおもう。

私は「苦楽の法則」というものを信じている。法則というのはウソで、単なる信心である。第一法則:苦労と楽の比率は人生全体で積分して一定。第二法則:苦労の量に比例して確率的に低いことを可能に出来る。なんてことを考えていた。だから楽ばかりの人生はありえず、楽ばかりするとあとで苦の消化に苦労するぞ、という風に考えるのである。それゆえ、まず苦になるものから手をつける。苦をためこむと、困難な希望でもかなう確率が高くなる、などと考えた。

苦とは、仕事、勉強、奉仕、親孝行、など外界に対する働きかけや、頭を使うようなことだと考えていた。

一方楽とは、お金または時間を費やして、知識の向上や、生活の質の向上を伴わない行為をおこなうこと。時間と金の浪費と考えた。

 

散々頑張ったあとでうまいものを食ったり楽しいことをしたりするのはまあつりあいとしてわるくないが、人の金でちゃらちゃら遊ぶ生活を続けているとあとでえらいことになるなあ、などとおもうわけである。それゆえ、小さな信心として、こういうことを信じていることは悪い結果にはならない。こういうことを中学生のころから考えていた。大変うまく機能する信心であった。ただ欠点は、こういう考えはあまり楽しくない、ということだろうか。

大学時代、尊敬するおばさんがいて、本当に働くばっかりでこの人の楽はどこにあるのだろうか、と不思議に思っていた人がいた。法則が予言するところ、この人には多大な楽が訪れるはず、と私はみていた。実際劣悪な環境にもかかわらず息子が東大に受かっていたと聞いて、「確率的に低い事象がおきていた」などと納得していたわけである。

そういう目で、海外旅行を楽しみ、買い物を楽しみ、美食を楽しむお姉ちゃんたちをみると、これはおもいっきりあとが大変だろうなあ、などとばかな心配をするようになった。確率的に低い不運に見舞われる、という想像をしているのである。ちょっとこういうひどいめにはなかなか遭わない、という目にあう人の話を聞くと、「こいつどーいう生活をしてきたのだろうか」と気になる。こういう苦を強いるような面白くない法則が、普遍的に存在しないことを祈る。もっとも、苦が多くてそれがあたりまえ、というのが人間本来の生活ではなかったかと歴史を見て思う。楽超過の現代の生活には大きな陥穽が待っているにちがいないと私は思う。

 

安さが売りのスーパーをのぞいてみた。どこが安いのか、という値段になっていて、戸惑いを覚える。消費者に多大な恩恵を与えてきた中国ルートが細っているからか。はたまた石油の高騰。さらには円安。今後も値段が下がりそうな気配がない。

石油のことを思うにつけ、今は相当冷や飯をくっている原発だが、3年後には風向きが相当変わっていると思う。もっとも頭の切れる官僚、最高の経営者、優秀な技術者が原発にかかわる時代がくるかもしれない。

 

蘭を触っていなければ、勉強漬けの二日間だった。大変頭が鍛えられた。

 

7月21日(土)カトレア宝塚香開花

カトレア宝塚香が開花した(今月11、今年95、新規27)。名なしのカトレアだったためいまだにこんな変な名前で呼んでいる。最初に見たときはレモンとケーキのような香りが強くてこんないい香りのカトレアは珍しいと感動した覚えがある。お値段が高いので手が出なかったのであるが、売れ残って花がしおれ見切り品になっていた。しおれた花ですらいい香りがしたため購入に踏み切ったという経緯がある。その後つぼみがしけたり、開花しても香りがよくわからなかったり、ということがあって本領発揮には至っていない。今回はわりあいしっかり咲いてくれているため香りが期待できそうだ。

 

ブラッシアに少し香りを感じた。

 

プラ鉢が割れていたシンビジウム・スイートデボン ‘スイート’を植え替えた。一回り大きなプラ鉢に椰子殻、軽石、パーライトなどを隙間に詰めておいた。

 

Onc. Gower Ramsey ‘Stella’にものすごく太い花茎が出てきてのびている。これはすごいことになりそうだ。Onc. ? ‘Genki’にも花芽を見つけた。

 

件のプレミアムアウトレットというところに話の種で行って来た。10時ごろはさすがにすいている。コジャレタ店がたくさんならんでいるのであるが、特に欲しいものもみたいものもないのでさっと通り過ぎただけで、結局一家でダイヤモンドシティーの本屋に向かった。

私や家族が喜ぶもっともおもしろそうな場所というのは、日本橋に行く回数を思うに秋葉原ではないだろうか。「のだめカンタービレ」のシーンで、パリの夜に感激する千秋にのだめが「秋葉原のほうがきれいですよ」というせりふがある。そうだなあ、あそこが一番おもしろいかもしれない、と思った。100円で買ったパソゲーが猛烈に面白かったり、単一の充電電池4つ200円で買ったものを7年経ったいまも庭の巡回に使っていたり、本当に秋葉原というところは飽きない楽しいところだった。

 

7月19日(木)

開過去最高の仕上がりと思えるDen. Formidible ‘Ryouma’ を見ていて思うに、この花は花芽2つで花6輪の大変ど派手な開花をするので、花芽1つでも報われた気分になる。だから無理にバルブを大きくして盛大な開花をねらわなくてもいいんじゃないかと思えた。一昨年だったか、ものすごい大きさのバルブが出て、盛大な開花が期待されたのだが、鳴かず飛ばずで肩透かしを食らった。この2年ばかりはバルブがあまり大きくならなかった。多分バルブが2本出たからだろうか。今年はなんと新芽が3本出ている。来年のこの時期には盛大な開花が期待できる。以前は難しいデンドロだと思っていたが、最近はよく咲いてくれるようになった。

 

夜の見回りが楽しい時期である。C.intermedia var alba?に大きなバルブが完成して、さらに新芽が出ていた。この新芽の存在が大きい。この新芽はますます大きなバルブに育つことだろう。昨年のように秋に咲かなければ開花は1月にずれ込み、その際過去にないような多量の花をつける可能性が高い。これは楽しみになってきた。この時期の新芽だから多分秋には咲かないだろう。秋は花のもちが今ひとつだったが、冬ならば開花期間70日までもってゆける。楽しみが大きく長いという結構な新芽をみたわけだ。

 

一昔前、仕事で中国の西安に一週間滞在していた。中華料理はもともと好きだったうえに予想外においしいものばかりが食べきれないほど毎食でてきた。思い出の中では端がかすむほどの食堂の長い長いテーブルにどこまでも皿が並んでいて、その80%が食べたこがないものばかりだった。その中の大きな皿に大きな魚が載っていて、観察するとなまずの姿煮だった。一週間の滞在費は400$。青銅器の爵のレプリカというお土産までついていた。これは私の宝物になっている。さらに始皇帝稜やら兵馬傭など観光もついているというすばらしい日々だった。実際は歯痛と頭痛と仕事のプレッシャーでのた打ち回っていたのだが、思い出だけは徹頭徹尾すばらしかったのである。仕事仲間と街で入った飯屋はがらんとして広かったものの出てきた料理はどれも懐かしい味のするものばかりで、とりわけプレーンなチャーハンは油を使った様子もなく上品で味わいが深く、あんなおいしいチャーハンは食べた記憶がないというほどのものだった。たらふく食べてビールまでついてわりかんで300円という値段にたまげたのである。

なぜおいしかったのだろうか。子供の頃の味を思い出すのだ。味の記憶というのは結構しつこいもので、東京は恵比寿の尾道ラーメンを食べたとき「あー、これこれこれ、まさにこれ、これが子供の頃に食べていたラーメンの味」と頭の中で歓喜の叫びをあげていた。だから子供の頃の懐かしい味というのは再現可能なのだな、と思えた。つまりかつて日本に大変おいしいものがたくさんあったことは確かなのである。それはたぶん人の手がしっかりと入った食べ物だったからではないだろうか。今ではそういう食品は我々の人件費を思えば相当高いものになる。相対的に家でしっかり作って食べるほうがおいしい生活になり、外食というものをほとんどしなくなってしまった。

当時ひたすらおいしかった中国だが、このごろ旗色が悪い。結局お金に追いまくられる日々に中国の人たちも「レベルアップ」したということなのだろうか。まだおいしいものは残っているだろうか。ダンボール肉まんはさすがにないだろうが、お金本位で物を考えているとおいしいものがなくなっていくのではないかという危惧を感じる。

人間だから豊かになりたい、と思うのは人間の弱点かもしれない。少しでも良い生活がしたいとおもうのは実のところ家族や他人という自分以外の人間がいるからかなあ、と思う。一人で無人島で暮らしていれば人間そうそう無茶はしない。家族に楽をさせてやりたい、うまいものを食わせてやりたい、人に見栄を張りたいとおもうから「現状維持か、向上か」と問われれば、向上にむけておずおずと踏み出してしまうのである。とりあえずだれもかれも一歩前にでる。全員ではないが出る。すると誰かがさらに一歩踏み出す。気がつくと大勢で走り始めていつのまにかなりふり構わぬ全力疾走になっている。実はどこかに追いこめられているようなものかもしれない。革命的な科学技術、20世紀には解決できなかったエネルギー問題を解決する何かが我々の先にある関門を吹き飛ばさない限り我々はそこに殺到してえらいことになってしまう、という状況である。後ろから「ガソリン150円」なんていうまだ小ぶりの石油怪獣がおいかけてきて、これがいつ300円まで成長して多くの労働者を食い殺すのかひやひやしながら後ろをふりかえるのである。

江戸時代はだれも走っていなかった。なにしろ石油がなかった。経済という怪獣はまだ目覚めていなかった。CO2を出す蒸気船が日本にやってきてからが大変だった。あれがはじまりだったのか、と思わないではない。

 

 

7月18日(水)Brs. Eternal Wind ‘Summer Dream’ SM/JOGA開花

Brs. Eternal Wind ‘Summer Dream’ SM/JOGAが開花した(今月10、今年94、新規27)。花茎は4本ある。植え替えても勢いが衰えない株である。花は例年どおり大きい。これぞブラッシアというまことに天晴れな株だ。

外気温21℃だ。大変涼しい。こういう涼しい気候は蘭の生育にはよろしい。多くの蘭が順調に成育しているように見える。

大変香りのよろしいカトレアのつぼみがまもなく開花というくらいまで大きくなってきた。

フウランとフォーミディブルがすばらしい花をつけている。

 

本日もダイエーのデンファレを見に行った。ビギバムが多いようですな。小さなバルブに結構いい花が多くついている。

デンファレは新芽のあるうちは多めに肥料を与えてもよい扱いの楽な蘭である。でもたまにむかない環境があるらしいねえ。冬場の環境が年間の生育を左右するように思われる。

 

借りた畑に植えておいたスイカがこぶし大になってきて嬉しい。かぼちゃももっと大きくなり、10個ほどなっている。サツマイモは40株も植えている。黒豆だの、にんじんだの、三度豆だのも順調だ。トマトがボールに山盛りとれて本日はトマトスープだ。多量に取れたジャガイモのポテトサラダもうまい。

ガソリンがまた値上げだそうだ。まだまだ覚悟しておいたほうがいいと思う。

 

7月17日(火)Den. Jacqueline Thomas x bigibbum開花

Den. Jacqueline Thomas x bigibbumが開花した(今月9、今年93、新規27)。常連の開花である。株分けした2株のうち1株が咲いた。もう一株もまもなく開花である。デンファレは先月開花していたものが枯れてから半月ほど空白期間があった。この期間以外は年中何かしらのデンファレが咲いてくれている。例年こういう状況だ。デンファレはその長い開花期間がよろしい。

帰り道ダイエーをのぞくとデンファレが売られていた。1株1花茎でさまざまな花をつけた株が化粧陶器の鉢にミズゴケで植えられていた。そのお値段なんと2000円だった。この値段で売れてくれりゃあいいが、とは思う。人気があるのだろうか。にわかにデンファレの人気が出ているのか?。デンファレに詳しい某イケメン園芸家が奥様方に大ブレークしてデンファレの人気がうなぎのぼりか?

うわぐすりのかかった陶器でも水のやりすぎに気をつければデンファレは育つと思う。現に最初はそういう鉢で育てていた覚えがある。

この間買ったデンファレは100円だった。元気そうである。「デンファレ欲しい!」と思ったときにデンファレが安く調達できるかというとあまりそういうチャンスはない。見かけたら買っておくしかない。東京ドームでも一株500円から700円だった。それでも選択の幅が広いわけではない。多くの種類が並んでいるという本日のようなことはまれだ。思い出したが、山陽自動車道下り尾道SAでよくデンファレが売られているなあ。500円くらいだ。おおむねいろいろな色のビギバムらしい。

デンファレはまた、めったに株が分かれない。バルブから高芽もあまり出ないし、小さい芽がバックバルブを転がしておくと出ることもあるが、咲くまで待たされる。増えないというのは利点ではあるが、素敵な花を人に分けてあげられないというのも少々惜しい気もする。デンファレの株分けなんて、デンファレ暦7年の私が今年初めて遭遇した。デンファレ欲しいという人には鉢ごとあげるようにしていた。

昨年だったか通りがかりのおじさんに育ちすぎたものを差し上げた。あのデンファレは高さ1mにもなって大変見事だった。小さいままのデンファレもあるが、高さが3倍程度まで、ものすごく巨大に育つものもある。

デンファレに人気が出て多くの人がデンファレを楽しんでくれればと思う。

 

 以下はケータイを持たないものの僻みのつぶやきである。

 昨日記述した本「ケータイを持ったサル」について、車中にてかみさんに話をしていたところ以下のような話を聞いた。「電話、ネット、メール、デジカメ、ゲーム機、住所録、財布、クレジットカード、定期、ナビゲーター、表計算、テレビ、ビデオなど、1つの機械で何でもやろうというのは、そのシステム自体の進歩はある。しかしながら、使う人間のほうはどんどん楽になってものぐさになってゆくばかりではなく、それに対する依存の度合いを増して、さらには物を考えなくなってゆくのではないか」、とおっしゃる。なるほど極端な話し、ケータイを使って仕事を探し、ケータイをつかって仕事をし、ケータイを使って買い物をし、ケータイで娯楽、ということをする人が出てくれば部屋から出なくても生きてゆける。映画マトリックスで見た脳みそ繋げ袋入り人間的なところまで行きそうである。さらにかみさんがいうには、星新一のショートショートに、以下のような話があるそうな。

 「異星からの通信で大変見事な技術を教えてもらった。あまりに便利な技術で、すべてがボタンでかたがつくようになっていった。人々はそれを有り難がって使ったあげく、あまりものを考えないボタンに依存した人間になってしまった。ほどなく、異星人が攻めてきた。もとより異星人撃退のボタンなどはなく、急場に対応できなくなった人類はあっけなく征服されてしまった。異星人いわく、便利にしてやれば能力が低下して征服しやすいのだ」とかなんとか。なんとまあ、人類の未来を見通したような作品ではないか。

 私は「じゃあ、携帯依存の人間の弱点は、ケータイということですかねえ・・・その人を征服しようと思えばケータイから、と」というようなことをその場で感想としてつぶやいていた。

 そこでしばらくこういうことを考えていた。もし日本を征服しようとしたらどうするか。ケータイに依存した連絡網やらITの通信網をつぶせばどうだろう。かつて大気圏外での核実験で電気回路が強烈な電磁波により破壊されたということがハワイであったと聞いた。核兵器は隣国にふんだんにあるようですな。もし日本の上空で核爆発をやられたら、あらゆるCPUが強烈な電磁波破壊されたりしないのだろうか。CPUだらけの国だからその被害は甚大だろう。そういうことに現代のCPUは耐性があるのか?。先制攻撃というのはこういう形で同時多発的になされるような気がした。まさかねえ。しかし布石がすでに宇宙空間のあやしいデブリに仕込まれているとしたらどうだろうか。ないといえるか?ある日突然取っておいたメールも画像もメアドもなんもかんも本体ごと使えなくなったりしないのだろうか。

 そうでなくてももっといやらしいことを考えた。昨日の本のように人間がサル化しているのだとすればケータイの会社にとってこれほどうまみのある市場はない。ネットとケータイと商売を融合させる。当然ケータイにお財布を付ける。ユーザーがサルで物欲の塊であればあるほど、ラッキョウをむくようにひたすら商品ページにアクセスしてちょこちょこ買い物をしてくれるのである。高いものを買いたいのに買えない人間はある種フラストレーションからその代償になるものを買う。ケータイを通じてきらびやかな世界を見せ、フラストレーションをおこせばなおよろしい。だからケータイにテレビをつけた。それゆえ、女性に人気のあるきらびやかなおねえさんや、かっこいいとされるチョイワルおやじなるものが登場して、そのきらびやかなファッションと消費生活を見せつけ、それを見る人々のフラストレーションをあおる。テレビに映る商品にはすべて注文先のアドレスが仕込んであるという念の入れようだ。これいい!と思ったら即注文できるようになっているのだろう。預金残高が少なくて買えなくてもウキー、とばかりに代償の安物買い、オークションに邁進する。「これ買ったの」というメールをメル友にばら撒いてこんどは消費者自身がほかの消費者をあおる。「私もこれかったの」「へー、いいわね」。ひたすらその連鎖。サルラッキョウの日々。以上単なる想像だが、まさかそういうことになっているんではないんでしょうか。

ケータイの中で消費行動の大部分が完結、または、ケータイに遮蔽されて現実的な消費行動が大きく変容してきているように感じられる。悪く言えば、ケータイに財布を握られ、ケータイに消費行動を操られ、ケータイに依存しているケータイ支配体制現在確立中建設中・・・。

 ケータイを持っていないおっさんには結局のところ現実に進行中のなにかがわからない。最近面白い商品は減ったなあ。飲食店もなんだか少なくなった。遊園地も潰れた。行楽の渋滞も減った。ゲーム機さえはやらなくなった。映画もろくなのがこなくなった。しゃーない本でも読むか、という感想を持つに至ったのである。しょーもないものがどんどん売れる世の中になれば、いい物は駆逐される、ちゅうことはないの。

賢い人はこれら情報端末を有用に、大変凝った使い方をしていると思う。上手く使えば大きな利益が得られる高い能力を持った端末だからだ。しかし人間安きに流れやすい。誘惑するものがそばにあればついついそちらに流される。ITもそうだけれど、こういう凝った情報機械は、できる人間はますますできるようになり、考えない人はますますかんがえなしにだらだらとそれを使うようになる。ITで人間の能力の差が拡大したように思われる。これが今日の格差社会の一因をなしているのではないだろうか。職場を見回しても生産性の差が格段に拡大して、それが数値化され、各人にものさしがあてられるようになってしまった。これらはITによってもたらされてしまったものだ。なんにせよ、ケータイで己を活かすか腐らせるかは個々人の意思にかかっている。

 

7月16日(月)Masd. ? ‘Wine Red’、 Pleurothallis grobyi 開花

Masd. ? ‘Wine Red’ Pleurothallis grobyi が開花した(今月7-8、今年91-2、新規27)。ともに常連同士の開花である。

倒しておいた蘭の棚を起こした。ただ、雨がよく降ったので蘭を出していない。

 

正高信男著「ケータイを持ったサル (「人間らしさ」の崩壊)」 を読んだ。105円で買った古本だったのだが、どうしたものか前の持ち主がおびただしい量の書き込みをしていた。傍線、波傍線、囲み、三角形、など書き込みのないページはない。いったい前の持ち主はこの本で何を勉強していたのだろうか。

当初この剣呑なタイトルに、「ケータイをもつとサルになるのだろうか・・・」と考えていたが、「サルになって、さらにケータイまでもってやがる」というもっと剣呑な内容だった。地べたにあぐらをかいて座る、電車で化粧、ことばの乱れなど、人間は人間らしさを忘れサルに近づいている、というのである。著者はサルの行動を追っかけている学者さんで、考察がみごとというか、説得力があって「うへえ、こりゃかなわんなあ」というオソロシゲな話が続くのである。社会の変革にともなって、母親が子供にいれこむ「子供中心主義」家庭が多くできて、挫折にもろい子供ができる。家庭から外には公的な感覚をすてていなおった「家の中主義」の若者がでてきて、周辺を家の中の延長と考えてしまい、人間特有の社会性を失った「関係できない症候群」によりこれら若者が、関係することで生じる利益を得られなくなっているという実験に基づく状況を報告している。

ケータイというのは「子供中心主義家庭」の象徴で、ダンナの小遣いは少ないのに、子供は毎月1万円以上もらってケータイまで与えられチャンネル権までもっているようなご家庭のぼっちゃんお嬢ちゃんを指すキーワードでもある(げー、信じられんねえ)。

強烈だったのは、参加すると5000円もらえるという著者の行った実験である。ケータイ暦3年メル友300人以上という(なんじゃそりゃぁ)女子高校生25人と、ケータイ不所持の女子高校生25人について、それぞれの群について実験をおこなっている。見ず知らずの二人一組で、最初にAが、もう一人Bに5000円を投資すれば、その人Bはさらに5000円もらえて、15000円のもうけになる。BはAを裏切って持ち逃げ15000円ゲットというのもありだ。その人Bが最初の人Aに5000円投資(といってもBの5000円所持金が減るだけ)すればさらに5000円をAが受け取ることができて、結果的にAとBそれぞれが1万円ずつもらえるという実験をしたのだそうだ。私だったら、見ず知らずのBを信用してバイト代5000円を投資して、たぶんやつも私に投資しかえすだろうから1万円の儲けになるなあ、と考える。しかしケータイねえちゃんたちはサルだった。相手を疑って投資をせず、投資をされれば15000円丸儲けの裏切りも辞さなかった。それで、もらって帰った金額の平均は5200円、一方ケータイ不所持のおねえさんたちは平均9600円もうけていた。歴然としている。ここまで差がつくかしかし。人間というのは、ある程度信頼するところは信頼してビジネスをすることで利益を出して豊かに暮らしているのが、そういうところがわからなくなっている人が増えているというところが恐ろしい。この実験結果を鵜呑みにしてもいけないんだけど、「自分の立場をやたら主張して、大きな利益を失っていないか」「そりゃ、朝三暮四じゃねえか」「いまケータイやゲームやってて将来の長期的な利益を失ってないか」「人前でそれを言うか」という無茶な人が増えている。サルと人では儲けがちがう。サルじゃ食えない。

そういう若者のサル化は、どうもお母さんのやり方による、と書いているように読める。子供に金をかけるのは何のため?おかあさんあんたのために過ぎないんでしょうが、と言い切るきついきつい内容の本である。おかあさんは子供にたよって欲しい、子供は母に安楽な居所を見出して依存する、そういうもたれあいの図を突きつけてくるのである。子供も自己実現が阻害されるわけでいいことはない。おかあさんばかり悪く書いてあったが、ダンナもよくそんなもん我慢してんなあ。ばっしっと言ってやれよ。

 

二日続けて月下美人パスタをつくった。ぬめぬめしてきもちがわるい。薬だと思って食う。かみさんはうれしそうに食べていた。効くんかいな。

 

 

7月15日(日)台風通過

かなり強力な台風4号は特段強い風や雨をもたらしたという印象もなく去っていった。本日は何もしていない。

 

子供やかみさんの用事で難波を通過中大変お世話になった恩師に出会った。双方子連れだったこともあり、恐縮して挨拶もそこそこにゆきすぎてしまった。自分の周囲の多くの人々のおかげでこうやって街中をプラプラしていられるのである。ありがたいことである。

この日、難波パークスだったかを見物した。時間が早すぎてしまっており、コーヒー屋に入ったのだが、高い。このコーヒー屋には職場の近くにもよく若いにーちゃんねーちゃんが入っているのがみえる。おおむねケータイをいじる、なにか宿題みたいなものを片付けている、パソコンをつついている、誰かと話をしている、というすごし方をしている。そんなところで時間をつぶさずに家ですごせばよさそうなものだが、とそそくさと通り過ぎるのが常だった。本日入ってみるとますます用のないところだった。パークスというのはコジャレタ店が多いところのようだ。特に欲しいものがないので、面白い建築だ、と思っただけで通り過ぎた。

道頓堀界隈と日本橋にかみさんとこどもの用があったが、私には特段関係のない町になってしまった。おっさんになったためか若い頃のきらきらした気分はさっぱりなくなってしまっており、何を見ても「まああれはあれだ」とわかったような気分で興味が湧かない。本日妙に心に引かれたのは道頓堀川側の麒麟の像であった。顔がかわいい。鹿と竜のあいの子のようなありえない生物学的な特徴をしている。

話は変わるが、本日行われた五ッ木の模試(台風がきてもやるとは)の理科を解いていて、単子葉類の根というのは根元からわーっと放射状に出る一方、大根などの双子葉類は、根も枝分かれしつつ樹状に下に下がってゆく、という図に驚いた。蘭は単子葉類だから、根元からわーっとでる。そういえば植え替えのときそうなっていた。根は時々枝分かれはする。これほど大きな違いがありながら、なんというかぼーっと見ていたのかなあ、と発見でもした気分になっていた

 

714Lc. Mini Purple 開花

Lc. Mini Purple が開花した(今月6、今年90、新規27)。咲いているのを見るまでまったく気がつかなかった。大所帯を庭に出しっぱなしにしていたため、蘭の葉陰にあったつぼみに気がつかなかったのである。3つのバルブからそれぞれつぼみが出ている。

温室で500鉢以上育てておられるような方は、遠くのほうに何か咲いているが鉢が多くて近づけない、などという猛者もいるそうだ。

 

調子がわるくもうだめかと思われたMaxillaria rufescensに新芽が出ていたので、プラポットは合わないと判断して素焼鉢2.5号にミズゴケで植え替えた。

 

夕方蘭の棚から球根を下ろして、棚を倒しておいた。8時ごろから月下美人の強烈な香りが漂い始めた。なにもこんな日に咲かなくてもなあ。庭ではまたとてつもなくでかいオリエンタルハイブリッドゆりが開花し始めた。そろそろ日付が変わろうかという時刻だが、静かだ。

 

兵庫県高校入試問題をせっせとやっている。時間を区切って模擬試験のようにやる。かれこれ3年分は片付けた。子供の受験をにらんで威力偵察をしているのだった。点数が95から75の間でふらふらとする。弱点をつめきっていないので変なところで点を落とす。英語、国語、理科は比較的安定しているが、数学には結構難問とおもえるような問題が出たりするうえ、ときおりケアレスミスが出たりする。山場は多くの場合図形にある。証明は型どおりのものが出るが、これこれの長さを求めよ、という問題におそろしいほど時間を食うものがある。意外と苦手なのが社会だった。公民はさっぱり記憶にない。「姻族」という言葉を初めて知った。「違憲立法審査権」をさっき覚えた。地理や歴史にも穴は多い。まさかスペインのマドリッドが山形と同緯度とは知らなかった。ブックオフで参考書を105円で買ってきて勉強している。暗記物は書いて覚えるしか私には攻略方法を思いつかない。長らく使っていなかったシャーペンを掘り出してきた。このごろはなんでもパソコンをつかうからなかなかシャーペンの出番がない。久しぶりに使ってみるとボールペンほど力が要らず具合がよろしい。受験時代シャーペンの名器を持っていたのを思い出す。100円だったが、すばらしい書き味だった。毎日B4に20枚は書きなぐっていたころにはとうとうそのシャーペンもつぶれてしまい、ボールペンをつかうようになった。ボールペンの中身がなくなるのがうれしくて太字のものをわざと使い、とうとう1日1本消費するようになった。その使い古したボールペンが直径7cmの束になるころには、これは不経済とおもえて1本40円のシンだけを買ってきて取り替えて使うようになった。勉強というのは中学のちょぼちょぼしたものから大学入試のモーレツ期まで段階的にその没頭ぶりが進化するようである。最初からモーレツにはなれない。

こういう親父がいると子供は少々困るようである。かつてのモーレツ受験生としては、どうやったら子供が「おれはやるぜ、おれはやるぜ」という状態になるか、ということが知りたい。私などはにんじんをぶら下げられると単純に走っていたようなところがあるが、この「ご褒美上げるから」というやり方は下策なのだそうだ。現にずいぶん失敗してきた。凶状持ちのオヤジとなって「やらんかゴラァ、どつくぞぼけえ」、というのは少々効果があったようだが、それなりに「わしもやるからやれ」といわないことには子供ものってこないから、こっちが疲れる。人間は普通勉強が嫌いなものらしい。人間はどうやったらやる気になるのであろうか。

和田秀樹著「大人のための勉強法」(パワーアップ編)を読んだ。本人も文中では受験を控えたお医者さんとして赤裸々な歯に衣着せぬ話が盛り込まれた大変面白い本だった。読みとったところでは、本人のやる気を期待して、そのやる気を出させることに注力しておってはどうもいかんようで、「やらんかゴラァ」と追い使うような勉強のさせ方が学力向上のためにはよろしいという考え方が世界的潮流なのだそうな。それゆえ「ゆとり教育やめるべし(2001年に出た本)」とある。遅かったねえ。教育改革はなぜここまで遅くなった。そのあたりの分析も実に鋭いことが書いてあっておどろく。お役人は「有識者」という現場を離れて久しいえらい先生のご意見を聞いて、現場や、現物をよくよく研究もせずに政策をつくっちゃうところがあるという。はいはいはい、そういう体質はよく存じ上げております。勉強法はそっちのけで面白い本だった。

塾へやるとそのへんばっちりやって子供の尻をたたいてくれるのかというとそうでもないようだ。子供が怠けているととりあえず数字には出る。すると塾は本人の努力次第だとおっしゃるそうである。そりゃまあよその子はしばけんわなあ。誰がしばくか?。親しかおらんやろ。子供が勉強できんのは大半は本人のせいだが、残りは親の責任でっせ。

その本人の努力ってのが怪しい。比較的勉強が好きな子供を観察していてわかるのだが、苦手は避けている。避ければ苦手は克服できない。そこでオヤジコマンドーの出番らしい。「キサマそのくそったれなテレビを消してテーブルへこい」とすごんでみましょう。なにするかわからんような雰囲気でうむをいわさずたたみかけましょう。「これからキサマの苦手な英語に集中攻撃を加える。ついて来い」。「きさま、疑問文の作り方もわからんのか何をやっておった!」と、どつくこと3回。3日間のべ12時間の作戦だった。あれは疲れた。

本日、平成19年度大阪府公立高校入試問題国語をなぜか3人でやった。入試問題は解答用紙、解答付でネットで公開されている。60字でまとめろってのが2つもあった。のこり15分というところで300字の作文を求められて鼻白む。答え合わせと検討をして、作文について勘所を述べた。

さらに平成19年度兵庫県公立高校入試問題数学をやる。問題の雰囲気が驚くほどよく似ている。このグラフを書かせるのは定番だなあ。確率が必須になったのか?。こりゃ結構ほねだろうが。山場はまたしても図形だった。合同の証明である。結構手間を食う。ボスキャラ的問題がやはりここに出題されていた。ところがそこでタイマーが鳴った。ええ、時間切れ、そりゃないよ。ここへきて時間が足りなくなるとはちょっと不覚だった。

子供らもある種諦観をもって試験に臨んでいるようである。なにしろ、「いっしょにやろうぜ、やろうぜ、やろうぜ」としつこくオヤジが迫ってくるからしかたがないのだろう。もう一人は数学フェチだから、来るなといわない限り参加するやつである。まあこういうのも考えようによっては面白いのではないだろうか。

 

7月13日(金)台風接近中

すごい台風が近づきつつある。忘れもしない2004年10月20日にこの地方を襲った台風23号「トカゲ」によく似た勢力とコースをたどっている本格豪風雨台風だ。日誌を見るとあの台風では仕事帰りに倒木でバスが通れなくなり、別の道を通って迂回すると竹林が倒れ、家の壁が倒れ、そのつどバスの運転士さんと撤去作業をしながら家に帰ったとある。

ランはほぼすべて家の中に引き込んだ。

 

昨日言及した「人は算術が五割」などという恐ろしげな本はない。数学能力と収入の相関などだれも知りたくないところである。本の書き手にとって読者はお客様なので、わざわざ気分の悪くなる話を突きつけて売れ行きを下げるのは望むところではないからだ。読めばむかむかするような真実が突きつけられるような本には「私が知りたいのはこんなことじゃないの!」と斧を振り上げて迫ってくるミザリー化を招く恐れもある。しかしそれでええんか?ちゅうのはある。現代社会はここちよいものであふれている。心地よいものばかりが選択され、売り手の利益になる。「そんなブランドもんで着飾ったってあんたはお貴族様でもなんでもないただのその辺に居るねえちゃんなんだよ」やら、「ゲームやアニメのねえちゃんがいくらかわいくてもおめえにそういうのっぺりした彼女ができることはねえ(できたって困るだろうが)」とは誰もいってくれない(商売に障るし、後ろから刺される恐れがあるからだ)。しかしまもなく風向きが変わる、と私は思っている。このままじゃやばい、と気付き始めた人々の動きが見える今日この頃である。いきなり現実を突きつけられてはたまったもんじゃないのでできる限り心と体の耐性、体力を高め、知力を涵養したいものである。

 石川英輔著「数学は嫌いです!苦手な人のためのお気楽数学」を読んだ。意外にも数学が得意なOLと、体育会系会社員の掛け合いで進行する、方程式、微分、積分、常用対数、三角関数の解説である。内容も面白いが、そもそもなんで数学をやるのか、という点について明確に著者の考えが述べられていて感激した。講談社文庫がこういう本を出してくれているのがうれしい(でも、ミスが2箇所あったぞ。p162L17 π/2は1/(2π)、p106L10:2を上付き)。

 この本にかかれていない数学の効能について述べてみたい。誰もが灘中の入試問題の算数の問題と解説をネットで見ることができる(あの名作の数々がタダだ。ああいう国宝級の名作の著作権はどうなっているのか)。かつて新聞に載っていた問題と解答14問を職場の同僚が切り抜いて持ってきてくれたのを3日がかりで解いた(受験生は50分で7割を解く)。問題が大変すっきりしていて、心を捉えて離さない面白いものばかりだった。あの図形が解けたときの爽快感といったらない(一方、理科も国語もすこぶるつきで面白い)。

このような算数の問題の効能は、問題をいろいろな角度から考えて、しかもしつこく考えて解くというふうに脳みそを鍛えてくれるという点である。いろいろな雑念であっちを考えればこっちと脳みその中はとっちらかった部屋みたいな雰囲気だったものが、「よし、今はこれについて集中して考えよう」というふうにすっきりと変わってくるのである。仕事で抱えていた難問を引き据えて、集中して、長時間取り組むようになった。「しつこい」「逃げない」「気の散らない」「楽しいことばかりあさるように捜し求めない」アタマになってきたのである。仕事に比較的大きな効能があったと私は考えている。「お肌がぷるんとしてきますっ」みたいなどーでもいいような効能の怪しげなサプリより、「すこしやつれて仕事がはかどるようになります…」という算数の効用のほうがなんぼかましだと思うがどうか。

 算数の効用は、家庭生活において重要ではないだろうか。「お母さん、これわかんなーい」「塾で聞いてきなさい」というやり取りがよく行われているらしい。「おばはん、あんたなんででけんのん」と、グラサンつけて差し棒しょってホワイトボードを殴りながら「だぁほ!、あんたがでけんで娘に勉強せえいうてええのんか?ちゅーてんねん」とか言いたい放題言ってみたい(誰やそれは)。まあでけんよりはでけたほうがいい、と思う。子供の教育費ってのは塾代が相等高いちゅうことらしい。だったら子供と一緒に勉強してそれなりに研究すれば経済的にも親子関係的にも結構利得があると思うがいかがか。三田誠広著「父親が教えるツルカメ算」にもあるように、父親も子供の勉強に参加すべきだ。同僚の中学生を持つお母さんは、かつて休み時間に図形の問題を解いておられた。子供さんは、このほど志望校に合格なさったそうである。塾任せ、丸投げではあんまりだと思う。

「まさかとは思うんやけんど、外で働いておいしいものを食うたり、服こうたりしようおもぉて、塾代を稼ぐちゅうてパートに出とるちゅうお母さんていてません?。正直にいうてみ・・・。あほ!。子供ダシにすな。ほんで、この点にやましさをおぼえる、学業実績がいまいちな、そやいうたら、点数がどれもティーンなレベルの、いわゆるフタコブ分布のお尻側にいてる、お子様を持つお母様、そらもう切実にお子様のお勉強を見てあげて欲しいとおもいます」。

 これだけうるさいことを書くとふつう読んでもらえないだろう。NHKは結構きついことを言ってくれるが、民放は視聴者にとって「私のことじゃない誰か」の批判だけはさせる。「妻の浪費と浮気、暴力亭主修羅場の結末、残された子供は!」というのは他人事かもしれないが、本当はそこにいたる陥穽は誰もが陥りがちなもので、そんなに悪化する前に手を打っておけば防げるはずだった事件が多くないか。事件にならなくても一家離散というのは至近距離で観測されている。マスコミの報道姿勢は抑制よりもむしろ事件を視聴者の娯楽として提供しているやに思える。「そのときプロジェクトガッテンの底力」的な(ひっつけすぎや)分析と解決策が示されないことには、「まあ、ひどい、(人の不幸は蜜の味よ)でもうちはまだましね」と、他人の不幸に安堵して自身の問題から目をそらす体質にさせられている。どれほど学力が低下し、生活能力、仕事の能力が低下しても、誰もなにもいってくれない、我々の社会はそういう危うさと不安がある社会ではないだろうか。むかしは近所のおばさんに大人も子供も「あんたそういうことしたらいけんよ」とたしなめられたものだ。あのころの日本はおにいちゃんもおねえちゃんもかっこよくてさっそうとしていて、お父ちゃんやおかあちゃんたちもしっかりして、おじいちゃんやおばあちゃんたちはやさしかった。いまでは、解雇、修学不可、離婚、絶縁、を突きつけられるまで気がつかないくらい駘蕩として各人は、抱える問題から目をそらして不安を抱えて生きているのである。

「せやから数学やりまひょ。おもろいでぇ、数学は。まずは算数。明日から算数。そこのおかあちゃん、算数やって」

 

7月12日(木)

ほったらかしの日々が続く。おおむね順調そうではある。つぼみもいくつかある。夜中につぼみをたずねて庭を巡ると、なにやら動物が動くような音が近所の林から聞こえてきてびくびくしている。

 

竹内一郎著「人は見た目が9割」という本を読んだ。この書名は「むむ」っと思わせるものがあるので手を出す人が多いのではないか。書名を見ただけである種ショックを受けるのである。「人は見た目で9割評価されてしまうのか?」と思った人は多いのではないだろうか。はたまた「人生は見た目で9割きまる」とか。「面接は見た目9割」とか。「女は見た目が9割ですって、なんてひどい」という具合に妄想を引き起こすタイトルである。読んでみると「人間のコミュニケーションでは、話す内容よりはむしろ、感覚的に9割のものを相手から受け取っている」という内容のようだ。だから、「なんでーばろー」と途中まで読んで思うのである。ただ、そういうなかばサギみたいなつかみから読者を引き込み、なるほどねえ、と思わせるだけの内容はある、と思う。最近ほんのタイトルはそういうずるいことをするので気をつけたほうがいいという例だろうか。例えば「下流社会」。この本は下流に焦点を当てているが、これは人の心が持つ「私はちがうからね」とおもいつつその下流というものを見下してやりたい、と思う下卑た心をたくみにくすぐるタイトルである。はめられている。本当はまじめに意欲や収入による消費動向などを分析した本だ。この本では、下流にはしょうがねえなあ、と思いつつも上流の消費生活に「んま!」とむしろショックを受けた。

 話はかわる。私は「人は算術が5割」などと説く。我々は何によって給料がきまっているのだろうかというきつい考察である。数学の能力が給料に比例しているように思われる。誰か書いていないかと思うが、そういう本を書いてもみんな面白くなくて売れないからだれも書かないのだろう。英語を使える人間は10億人居るが、高度な数学的能力を使用できる人間は1億人いないのではなかろうか。あれも結構訓練すればそこそこできるものだと思うのだが、好き嫌いが激しいのか英語ほど盛んではない。数学は文系理系を問わずこの良し悪しが入試などの試験にもろに効き、業務においても差が出るところである。独学すれば大変安上がりな勉強なのだが、学校か、学習塾か、予備校でやってそれで終わりという人も多い。苦手な人は数学を蛇蝎のように嫌うのである。だが、面白いと思えばしめたもので、親しめば最高の友達、しかも生活と人生の強い味方になるのである。おっさんになっていても数学をやっていると頭がくっきりと冴える。図形なんぞはものすごく効く。数学をやらないのは損だ。

 蛇足ながら数学の次に効くのは国語である。数学と国語が主食なら、理科、社会、英語ほかはおかずみたいなものである。主食におかずをつけて、自分を定食として売って給料をもらうのである。クオリティーが高いほど給料も高い。その知識、技能のベースが数学であり、国語であり、その上に専門性のおかずを重ねるのである。

わきゃーやつらがなにをかっこつけたいのか英会話へゆくが、なんで数学や国語やらんのか。かいがいりょこうばいきくさってちょっとホテルで二言三言しゃべるだけでかっこつけたとおもーちょるんかいの。若干、をわかせん、などと読めば少々かっこつけても足りへんがな。「河童の川流れ」をしらべたやつがおるか?。最近辞書ひいた?。そりゃ数学できても自慢は出来ん。「こいついやなやつ」と思われるだけや。せやけど、数学できたらいやなやつとおもわれるくらい一目おかれるちゅーことでもあるんやないか。わるいこといわんから数学やんなはれ。

 

7月9日(月)Masd. Rose Marry、Maxillaria rufescens、Prosthechea radiata開花

Masd. Rose MarryMaxillaria rufescens 、Prosthechea radiataが開花した(今月3-5、今年87-9、新規27)。3つまとめて開花は久しぶりだ。うちのMaxillaria rufescensとはちがう、このあいだI氏からいただいたものが開花した。花の大きさはかなり小ぶりである。同じ種とは思えないほど違う。

 

夜帰ると門のところでおなじみの香りが漂っていた。月下美人の開花であった。雨の中人知れず咲いているというのはもったいないので家に引っ張り込んだ。だが、アリが相当いるらしく手がありだらけになっていた。かみさんは花が終わったらパスタにしてくわせろという。何でもお疲れだそうで精の出るものを食べたいという。かみさんがいうくらいだから精がつくのかもしれない。

 

魯迅の「故郷」を読んだ。昔国語の時間に習った話で、印象深いのだがさっぱり忘れている。ばあさんが何かをつかんで纏足の足で何かをつかんで逃げ去ったというラストあたりの一行が妙に印象に残っている。しかしそれしか思い出せなかった。読んでみると国語で習ったにしては長い話だった。なるほどこういう話だったとおもって帰ってくると、かみさんが「久しぶりに故郷に帰ってみると、昔の親友閏某は生活苦から使用人根性がでてしまい、美人だったお姉さんはいかついばーさんになって鳥の餌やり器をもってすっ飛んで逃げ帰るという話じゃなかった」と、ついさっき読んだ話を要約していう。お互いに国語で習ったのだが、記憶力の差をまざまざと見せ付けられた思いがする。

 

また事務所費問題?いい加減にしろ、とみんな思っているだろう。畑村洋太郎著「失敗学のすすめ」を読んだ。失敗を繰り返さないための情報共有だの、さまざまなテクニックが紹介されていた。あれほど世間を騒がせて死人まで出しているのだから企業なら懲りて徹底的に失敗学をまなんで轍を踏まないようにするはずだ。だが、閣僚になる人間について、その金銭帳簿をマスコミに突っ込まれないように精査もせずにいるらしい。これはいくらなんでもお粗末ではないか。

 

7月8日(日)

ほったらかしの一日であった。夜中に昨日のデンファレをもって踊っていたぐらいである。

蘭の迷宮にアップロードをする。画像ページを作るのはさして手間がかからないのだが、アップロードでは200個のファイルで結構な時間がかかる。調子に乗って溜まっていた使用済み画像を全部放り込んだページは画像数が500枚程度にもなり、表示していると「仮想メモリがたりません」まででてきた。あまりにも画像が多く、コメントを入れる作業はさっぱりすすんでいない。

 

月下美人が間もなく開花。サクララン開花。

 

子供のたのみで買い物のため京都を案内して回った。わかりやすい都である。バスと歩きで朝からうろうろしていた。飲食店の数がへったというか、つい食事をしそびれてかみさんからもらっていた握り飯2個で夕方まで持ちこたえていた。途中みかけた石屋で、奮発して525円の水晶を買ってきた。エノキダケのようにたくさんの細い水晶が生えているという雰囲気の石である。これは素敵な画像が得られそうだ。

 

閣僚の辞任云々でかまびすしい週末だった。何かおかしなことを発言すれば大臣というのは数日でやめることが出来るほど軽々しいお役目なのだろうか。以下は政治のことはよくわからない私の勝手な想像である。

党に対してある程度貢献がある人を大臣にしてあがり、という話を聞く。そういう貢献のある人が党内にかなりの数たまってきたのではないか。そういう人々は金集めはうまくても閣僚としての資質がいまひとつなので、本当に大事な政局には用いず、今日の様に安定した、景気も悪くないこの時期に閣僚にして、かねてからわかっていた大問題(年金問題)の泥をかぶっていただくとか、言いにくいことをわざといってもらう(イラクうんぬん?)とか、ぽかすかたたかれる法案を通していただくとか、そういう使命を帯びて閣僚をなさっているのではないだろうか。そういうしんどい閣僚に疲れちゃうと、「生む機械」だの、「会戦はすべきでなかった」だの、「しょうがない」だのという発言を意図的にしてマスコミを使って世論をあやつって何らかの目的を達しているのかもしれない。選挙も今後の政治にはあまり影響を与えない参院選だから、ここらで在庫一層内閣をこしらえてそういう人材を上がりにして、勇退していただく。選挙で負けても、以前に党をでていった影響力のある、本当は地下でつながっている人々に選挙で勝ってもらって花をもたせる。あとで一緒になればいいじゃないか、そのほうが帰りやすくなるし、ということはないんだろうか。

為政者ならマスコミを利用しない手はない。為政者は芝居をしてうまくこの国をコントロールしているのではないだろうか。外務大臣の「日本の底力」うんぬんの本を立ち読みした。日本のすることは緻密である。なにしろ世界の15%の富をかきあつめた国である。ものすごい筋を考えて慎重にことを進めた結果がテレビで見る不自然などたばたになるのかもしれない。

 

昨日ブランドうんぬんについて文句を言ったが、私がたまたまけちけち蘭栽培が好きであるだけで、預金残高を危機的状態にしてまでブランド品を買いあさる趣味にはまっていれば、私もブランド品礼賛のページをつくっていたかもしれない(うそ、ぜったいやんない)。好きなものを我慢するのはつらい。人が不快な思いをして煙をがまんして怨嗟の視線をつきさしてくるとしてもたばこはなかなかやめられないものだという。

本日京都からの帰りに大山崎付近を通過した。戦前の蘭栽培で有名な大山崎山荘のあるところだ。しかし太平洋戦争のためだったか、なんだったか、ランの楽園はその存在を歴史と絵画と世間に残った蘭のいくつかにみるのみである。状況の変化でいやおうなく続けられなくなるものはある。海外旅行も、ブランドも、たばこも、美食も、ランも続けられない状況がくるかもしれない。そういうとき人間は状況の変化に合わせてやめられるひとがおおいのではないか。

 

7月7日(土)デンファレを買った。

またまた懲りずにデンファレを買った。トップページに写真入で以下のデンファレ特集を組んだ。

 

特集 デンファレ礼賛

またまたデンファレを買った。

 

 某郊外ショッピングセンター1F食料品売り場脇の花屋にて1株だけ見慣れた葉の植物がうられていた。デンファレだった。最近のデンファレは面白い色のものがおおい。100円というきりのいい値段につられて、10円玉10枚で購入した。うまいものを食べても収まらなかった仕事でのむしゃくしゃした気分がすーっと引いてゆくのが不思議だったねえ。

  

 よく見ると下に200円の値札が透けて見える。100円とはまた下がったものだ。しかし、デンファレというのは、かなりの確率で咲くうえ、扱いやすくしかも丈夫な植物である。こういういいものが日常生活の側に転がっていることを知って欲しい。そこで今回はしつこくこのデンファレが11月に咲くところまでをじっくり追いかけてみたい。

 

 この株には2本のバルブがある。それぞれ花くきが出たあとがある。1本のバルブから繰り返し花茎が出てくることが多い。3年間毎年1本ずつ出た、というバルブもまれではない。

 

 購入時見て欲しいポイントは根元である。写真のような根元から新芽は出る。この時期この新芽があると、夏の間大きく育って9月には花芽がでて11月には咲いてくれそうだという予想が比較的容易にわかるのがデンファレのすごいところではないだろうか。それゆえ11月に咲く、などと大口をたたくのであった。このポットはビニールのふにゃふにゃしたやつで、これで育たないことはないが、冬場よわるので植え替えることにした。

 

コンポストはミズゴケと杉皮だった。ちょっとゆったりぎみにうえつけていった。水で湿らせてからコンポストを取り除き、根だけにする。古いバルブ(バックバルブという)が3つばかりついていたが、もはや役割を終えているので取ってしまう。素焼鉢2.5号を用意した。どうしても素焼鉢でなきゃいかんというものではない。

 

今回は椰子殻をコンポストに用いることにした。椰子の実の外側である。最近は100円ショップでもよく見かける様になった。一晩袋ごと水につけこんでおくと茶色い汁がでる。タンニンとかいうものらしく、これを抜いて使うのが基本だ。過湿を嫌うデンファレとの相性はよさそうである。素焼鉢の下の穴を塞ぐようにざらざらっと入れておく。

 

株を入れて、椰子ガラをつつきこむ。新芽を折らないようにしよう。指でぐっ、ぐっ、と押し込んで株を固定する。

 

新芽のある方向を心持ち広く取る。

 

植え付けが終わった。鉢がこころもち小さくなり、風が吹いたら倒れそうだ。デンファレは、倒れそうなビキニな鉢でないとうまく育たないのである。よく言われるのは、根が鉢内部にしっかり回らないとバルブと呼ばれる棒状の部分にまわる栄養が根にとられて成長が不良になるというのだ。私は、根が乾きやすい環境ではバルブにしっかりと溜め込むために成長が促される性質があるのだ、と考えている。根が濡れている時間が長い比較的大きな鉢だとバルブの成長が促進されないのではと考えている。たとえば、鉢のヘリにのし上がったようなバルブははみ出した根がよく乾くので成長がよい。まあ本当のところはよくわからないが、経験からデンファレは小さな素焼鉢に植えるようにしている。

 

植え付けが完了したら、日陰で1週間以上乾燥させる。植え替えで弱った根は乾かしたほうが傷口に菌がわいて腐るのを防ぐことが出来るからそうするのだろうと考えている。

 

一週間以上日陰で乾かして置いたら、この写真のようにお庭デビューである。肥料はしばらく待ってから与えたほうがよい。

 

市内にプレミアムアウトレットとかいうブランド品の店がオープンしたそうな。かみさんも誘われていたらしいが、先方の気分でキャンセルになったそうである。近くを通りかかると、現地まで2kmというというところですでに渋滞が発生していた。果たしてブランド品とはいかなるものなのであろうか。

デンファレが世間にとって知らない人にはどうでもいい植物であるのと同様、ブランド品も知らない人にはどうでもいい品物である。私の靴は2000円もしているだけあって、乗り換えの猛ダッシュではあんよのパワーをしっかりグリップして心地よい加速と軽快な足回り、階段1段飛ばし降りもなんなくこなしてくれる優れものだ。それに十倍百倍の値段の靴があるというのだ。いったいどんな能力が秘められているのだろうか。デンファレは100円だが、ブランドは数万円のものがざららしい。そういうブランド品を買いあさるねえちゃん、あんちゃん、奥さん、濃い感じのおっさんは数十万円、時に数百万円もそれらの品々につぎ込んでいるという。近隣の渋滞振りを見るにブランドの力というのはそういうところがある。

高い靴が側溝の金属蓋の孔にはまりこんで「こわれちゃった」という人の話をよく聞く。雨の日に履いてきて、水や泥で皮をいためちゃったという話もある。何でそんなところや悪天候の日にそういうものをもってくるのか、というおばちゃんと鋭い突っ込みには「だって履いてきたかった」という答えが返ってくる。

かみさんいわく、ブランド品の中には作りのしっかりした使い勝手のよいものがあり、修理して十年以上大事に使えるいいものがあるという。では世間はいいもの志向かというと、無謀な使い方を聞くにそうでもないようだ。

見栄、といったら悪いが、そのエネルギーは馬鹿にならない。見栄はいつも地球にやさしくない。行った先で仕事をするわけでもないねえちゃんが遠くへ飛行機で買い物に行くと多量の二酸化炭素が出る。ブランド品を多く持ったからといってさっぱり幸せそうにはみえない人もいる。見栄をはって大事なお金を消耗して、神経すり減らすのならやめたら、といってあげたい人もいる。見栄を張ると、「何だあいつ」と思われるのが常で、そういう思念というのは私はコワイと思う。覚えがめでたかろうはずがない。「なめられたくない」というのであれば実力をつけるのが本来の道で、かざりものでどうなるものでもない。(なーに、この子経済観念ないの、とか。これを嫁にもらったら苦労しそう、と思われるのがおちだ)だから見栄の先に幸せはない、とおもっている。

よい仕事をして、心栄えよく、必要なよい品を手に入れて大事に長く使うというのは結構なことだと思う。そうあってこそよい品はよい品として働くことが出来る。一方で、借金までする身でブランドに手を出すのはやめるべきだ。「わたしのお金をどう使おうと私の勝手でしょ」といわれることだろう。福沢諭吉によれば「自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず」とある。放蕩ブランドねえちゃんには「あんたの財布の諭吉は(もしあれば)泣いているぞ」というべきか。

母は原爆を見ている。当時の様子など聞けばついこの間のことのように感じる。歴史には長く安寧に暮らす世代というものがまれではないだろうか。今の暮らしを当たり前と思っていてはいけない。たまごがご馳走というのが母の世代の話である。ずっと豊かで戦乱がなかった最近の若い人たち(私を含めた50台くらいまで)がこのままの安寧が続くものと誤解するのも無理ないが、急激な生活水準の低下がそこまで迫っているかもしれないので注意喚起申し上げた次第である。多分料金が高くなりすぎて海外旅行に行けなくなるあたりから窒息しそうな気分になるかもしれない。私はそのときまで、あと5年ほど、とみている。

 

7月3日(火)フウラン開花

Neofinetia falcataが開花した(今月2、今年86、新規26)。花茎4本でつぼみがたくさんある。香りの花が3株咲き誇っている。庭はゆりも咲いていい香りだ。

 

かの戦争についてはびっくりするような考察がある。「謎解き日本の合戦史」という本の中で、「白兵主義」という言葉が出てくる。どうも歴史書の白刃をひらめかせて敵と渡り合うカッコイイ武者姿をイメージして、これが軍隊のマニュアルに入り込んだのだそうだ。「突撃し、敵を切り伏せて勝つ」ということらしい。なるほど中世の軍記ものにはそのようなもののふの勇ましい戦いぶりが描かれ、戦前の男たちはこれを読んで奮い立ったものらしい。しかーし、そのような軍記ものは実は虚構というのが種々の調査で明らかになってきたそうだ。「けが人報告書」のような記録があって、刀傷はまれで、もっぱら飛び道具である矢や鉄砲の傷が多いというのである。人的損害は生産力や戦闘力の低下を招くので極力避けられていた。両軍肉弾で激突する白兵の戦いは川中島などの合戦などごく希にしか起きていないというのだ。その軍記ものは260年間戦争らしい戦争がなかった江戸時代によく研究されていた。その後幕末、戊辰戦争、日清、日露戦争と立て続けに戦争が起きる。

司馬遼太郎著「坂の上の雲」のある場面では203高地を取ろうとして突撃を繰り返しおびただしい数の兵隊さんが命を落としている。軍記ものの妙なインプットがこのころから火器に対して無謀な突撃を行う風になっていた、ということはないのだろうか。日露戦争はしかし、バルチック艦隊との艦隊戦で歴史的に希に見る完勝を収めてしまったため軍隊の危険な要素は見過ごされてしまっている。

かくて歴史的誤解により、「精神で勝つ」がぼこぼこにやられ、最後には「一億玉砕」と叫んで竹やりまで持ち出して訓練していた。本当にやっていたのだ。機関銃と竹やりだ。このところ近所に猿が出没して戦々恐々としているが、私なら猿相手でも竹やりではいやだ(今日はうちが植えているサツマイモを食われたそうだ)。しかし今だからそれは無茶だろうと思えても、当時もし私が存在していたらやはり当時の気分に染まっていただろう。人間とはそういうものではないか。だから政治にはしっかりして欲しいというのが国民の思うところである。しかし残念ながら君子はいない。

戦闘アニメを楽しく見ていた世代として「カッコイイ」「勇ましい」に感じる爽快感はわかる。しかしなんだかそりゃあぶなくないか?と思う。ふと「ガンダム」というアニメのことを思う。私はキラリーンとひらめいて敵を撃つアムロをカッコイイと思いつつも、ビームライフルをモロにくらって声にならない悲鳴をあげつつ爆死するザクのパイロットに同情する。私などはまっさきにやられてしまうなあ、と思い、実に細かなディテールまでやられかたを想像してしまうのだ。シャーが大気圏突入のドサクサに木馬に攻撃を仕掛けていた場面、ザンジバルに帰り損なって大気との摩擦でもえちゃう部下はたまったもんじゃないわなあ、あれはかわいそうだ。シャーなんざ一瞬しおらしいがあとでしゃーしゃーとしている。そういうヒサンなシーンのオンパレードであるガンダムも、「キラリーン」よりはむしろそういうヒサンなところがよく描けていて重要であり、感じて欲しいなあと思う。

話を戻すが、カッコイイ虚構の軍記ものばかりみて「孫子」などを忘れたことが問題である。兵法書には、「戦争はしないにこしたことはない」とかいてあったのではないだろうか。

 

7月2日(月)

今月は、先月よりもすこしは咲いてくれそうである。

土曜日に「洋ラン入門」(楽しみ方・育て方)高橋章著、成美堂出版、1991、750円を古本屋で105円で購入した。ビギナー編とベテラン編に途中からわかれており、ビギナーには、カトレア、デンドロ、シンビ、オンシ、ジゴペタラムなどの育て方が記述されている。ベテランは、ミルトニア、バンダ、ファレノプシス、パフィオ、リカステというところを扱っている。なにやら面白いわけかただ。リカステを扱った本はあまりないので貴重かもしれない。

リカステといえば、昨日花工場で花の終わった株をみかけた。残念なことに見切り値札がついていない。安かったら速攻買って帰るところだった。

 

原爆にはいろいろと個人的に関係がある。佐々木譲著「ストックホルムの密使」を読むと、ヤルタ会談、ポツダム宣言から原爆投下まで、「うわー、日本なにやっとんじゃぁ!」という緊迫した場面がつづられている。半藤一利著「昭和史」を読むと、ああしてこうしてこうなって、大変つらい歴史にショックを受けつつ原爆投下を迎えるのである。小学校時代習ったらしいのだが、おっさんになるまで昭和史というのはぼっかりぬけていた。昭和史をつるつる説明できる人が果たしてどのくらいいるのだろうか。そもそもなぜあの戦争はおきたのか?

私は、日露戦争で賠償金が取れなかったとき、国内では不満から日比谷焼き討ち事件が起きたときがその起点だと考えている。我慢に我慢を重ねて勝った戦争で金が取れなかったという不満もわかるが、それは当時の日本人に芽生えた「勝者の驕り」を含んだ不満だったかとおもえる。これが歳月とともに肥大化し、大恐慌で膨れ上がった。強い近代国家が植民地を持って何が悪いという当時の考え方はわかる。しかし中国を侮り、取巻く敵や情勢の分析が日露戦争当時よりも格段に劣っていた。

北村薫著「リセット」をよむと、戦時中神戸で女学校に通う主人公の日常は空襲の日まで現実離れしたところを感じさせない。それゆえ、空襲以前までは、多くの人々は戦争に負けはしない、という程度の気持ちでいたことは想像に難くない。かの戦争は、日本人の「やっちゃえやっちゃえ」という気持ちに「食えなくなった田舎の次男三男の集団」である軍隊が乗ってあそこまでいってしまった、どうにも日本人自らがやった戦争だと思える。

私が当時生きていたら、何を変えられたかと思うと、もちろん結局何も変えられなかったのではないかと思う。

振り返って今日、われわれ日本人になにがしか当時に通じる驕りを感じるときがある。日常生活でもそうだが、そういうのがやたら増えた車の事故などに感じられる。死者はへっているらしいが、馬鹿ドライバーは増えているように感じられる。われわれは馬鹿になりつつあるような気がする。これからがコワイのである。

原爆にもどると、ミッドウェー海戦に負けた時点で降伏すればそれはなかった。あれで負けた、と思わないはずはない。だが国民には「勝った」ことになっていた。負け、というところからなぜあそこまで戦い続けたのだろうか。なぜあのような戦い方になったのか。孫子の兵法はどうしたのか。これについてもいろいろ考えさせられるところがある。負ければ満州は失ったが、沖縄戦はなく、北方領土は保全されていたかもしれない。「負けることが出来なかった」という事情もわかる。原爆がおちたあと、その威力については風説がながれ、いつ新型爆弾でやられるかという恐怖が人々を覆った。この恐怖により講和に踏み切ったというところはある。しかし原爆を落とされるまで負け戦を続けてきたことに対して「落としてもらったから戦争にけりがついた」はねえだろう。「いまどき水道水飲んでる人はいないでしょう」(国民怨嗟集中)以来の「不吉な発言」である。とっととやめなかったことや、はじめたことについての歴史的考察はなしか?誰が悪いということはやらなくてもいいが、そのあたり「こうするべきだった」という弁が欲しいのである(難しいが)。「美しい国」の閣僚が稀有なことに自殺なさったり、歴史について変なことをおっしゃったりするのははなはだ憂慮すべき事態である。こんなぼろぼろの時期にもっとぼろぼろにして、わざわざ選挙をするのも本当はなにか裏があるのではないかとかんぐってしまう。しかしながら、我々の代表であるから、我々がぼろぼろなのかなあ、という反省材料となりつつもある。

 

7月1日(日)Rhyncholaelia digbyana開花

Rhyncholaelia digbyanaが開花した(今月1、今年85、新規26)。開花するや否や香り始めている。

 

Den. Formidible ‘Ryouma’が過去最高の仕上がりである。花6つがずらりと横に並びそうだ。

 

蘭の迷宮にファイルをアップロードしていたら1時間ほどかかった。1pが過去最大級の容量である。もっと巨大な画像ページを作成してしまい、これをアップロードするのはしばらく難しいだろう。モデムなのでこのように遅いのであるが、毎月数千円払ってまでネットにつなぐほどネットの需要がないためぼちぼちやる。

以前使用した画像が、使用済みホルダーにたまっていたため、これをつかった気まぐれページを作成したところ過去最大級のページになってしまった。アップロードしようとすると777個のファイルがアップロード待ちと表示された。こういう数字は文句なしに過去最大だ。いったい何時間かかるのだろうか。ぼちぼちやろう。(HPは現在約70MB、900枚の画像をアップロードしている)

 

月下美人とサクラランのつぼみが出ているのを見つけた。

 

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